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1988年 ニューヨーク

第1回 1988年6月17日 滞在4日目

滞在4日目ワシントン、カナダ・ナイアガラを経て最後の滞在地ニューヨークに到着。

6月17日

BIG APPLE
ニューヨークの朝、曇り。
摩天楼の眺めが一望できる・・・と言えば、エンパイアステートビル
明日の午後がフリータイムなので、ニューヨークの地理を掴んでおこうと思います。
高速エレベーターであっという間に到着。「さすが、アメリカ・・・」とつぶやく私。
正直言って、こんなに速いエレベーターは初めてだった。
毎秒うんメートルとか言っていたが数値は忘れてしまった・・・とにかく速かった。
眺めは・・・曇ってはいたが、セントラル・パークも掴んだし、ロックフェラーセンターも見えた。
ニューヨークの摩天楼とはいえ美しいばかりではない。
ジャズが流れてきそうな、年代を感じさせるレンガ造りのビルもまだまだ多く存在している。
だから、上から見下ろしたニューヨークの街は新旧混在、雑多な街なのだった。
このあとマンハッタンの東端にある国連本部ビルに行った。
First.Aveに並び建つビル群が見事でようやくニューヨークを感じた私だった。
ロックフェラーセンターで放されて、約1時間のお買い物タイムである。
地下コンコースにもショッピングセンターがあると言うことだったが、そこに行くのも味気ない。

 国連本部ビル


・・・と思っていたところへ、「ねえ、ちょっとバーバリーに行ってみない?」と声をかけられた。
おそらく、この2人組は私がバーバリーの場所を知っていると思ったのだろう。とんでもない!
「バーバリーってなんですか?」
「は?」「あんた、バーバリーを知らないの?!」
「・・・はあ・・・聞いたことはあるんですけど・・・」
「しょうがないわねえ!いっしょに行きましょう!」私は、この人たちについて行く事にした。
ここから5番街を真っすぐ行けば到着である。結局、案内役は地図を持っていた私だった。
道々彼女が言うには「紳士物なんだけどね、私はコートが欲しいのよ」という。
「バーバリーのコートは雨が滲みないのよ。あなたはお父さんに何か買ったら?喜ぶわよ」と。
無事到着。彼女がコートを物色中、私は「父にねえ・・・」と店内を眺めていた。
「!」これはもしや・・・岡田真澄がよくしている、ネクタイのようでネクタイでない・・・
マフラーのようでマフラーでない・・・それは何かと尋ねたら・・・アスコットタイ、アスコットタイ・・・
「(こんなの、する機会ないよなあ・・・)」と思いながらも柄のセンスに見とれていた。
これまた紳士的な店員さんが、丁寧に取り出して、手にとらせてくれた。
「せっかく来たんだし買っとこうかな」とGET!
先ほどのお姉さん2人組も、めでたくお目当てのコートをGETしたもようだ。
りっぱな箱に入れられたコートを大事そうに抱えている。
「あー買っちゃったー、バーバリーのトレンチコートはね、ほんとはベージュが定番なんだけど紺にしちゃったー」と
満足げである。

 バーバリー定番のトレンチコート


ロックフェラーセンターに戻る道々、ティファニー発見!
いくらブランド音痴の私でも、ティファニーぐらい知っている。
オードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」があったではないか。
どんなところか見たくて、店内に入って驚いた。
日本人ばかりウヨウヨいるではないか!「なにこれ・・・この人たちなにしてんの?」
ティファニーは宝石商である。
見たこともないような大粒のダイヤ、エメラルド、ルビー、サファイヤ・・・。
まるで博物館並みの商品を扱い、実際販売している。しかし、日本人が群がっていたのは、
店内にある別の一角だった。「なにがあるんだろう・・・?」
私も日本人で、店内の人から見たら‘日本人’の頭数のひとりだが、目的もなくフラッと来てしまった日本人である。
私は、バーゲンセールのワゴンに挑むように、日本人が群がっているショーケースを覗いた。
そこには‘金製’‘銀製‘の、もっとそばで見ないとよくわからない模様のネックレスが並んでいた。
「これ、なんですか?」
「は?オープンハートよ」
「・・・オープンハート?(それがどうしたんだ?)有名なんですか?」
オープンハートも知らないでよくティファニーに入ってこれたわね!とでも言いたそうに、
「ティファニーと言えば、オープンハートよ」と当然の如く答えた彼女だった。
「ふーん、そんなに有名なんだ・・・」
ふと見ると、いっしょに来た2人組も、いつのまにかショーケースの中で一番でっかい
オープンハートを購入しているではないか。(直径5cmはあった)
「母に買っていこうかなあ・・・でも、オープンハートは・・・ちとダサい」
有名じゃないんだろうけど、こっちのにしよう。ついでに私のも。
私は、2種類GET!したのでした。
日本に帰ってきてから知ったのですが、ひとつは‘ティア・ドロップ’という涙の形だったのでした。
知らなかった・・・
もうひとつの、なんの模様かわからない‘とぐろ’(蛇がとぐろを巻いたようなので)の方は今だに不明のままです。
うちの母などわざわざ宝石鑑定の人を呼んで、2個を鑑定してもらったそうだ。
「あなたの買ってきたティファニーはニューヨークのティファニーに間違いないってさ」だって。
当たり前じゃないのよ!実際行って買ったんだから(笑)
・・・こんな母です。私がいったいどこで買ってきたと思っていたのでしょう?
とことん私って信用されてないなぁ・・・。

BIG APPLE AT NIGHT
夕方6時、サウスカロライナ州の大学に留学している友人とホテルのロビーで待ち合わせ。
何年ぶりでしょう・・・5年ぶりかな。彼は長距離バスでやってきたと言います。
長旅だったようで、疲れていましたがニューヨークは初めてなので気分は私といっしょで
「おのぼりさんだよ」と言っていました。
私たちはさっそく治安が悪いというニューヨークの夜へ出かけることにしました。

私の泊まっているホテルはマジソンスクエア・ガーデンの向かいにあります。
7番街に面していますので、真っすぐ北に向かえば、タイムズ・スクエアにぶつかるはずです。
私はニューヨークのイメージのひとつとしてタイムズ・スクエアがありましたので、
「ひと目見ておきたい」と思っていましたから「行ってみたい」と言うと、彼は「俺は何かあったら、逃げるからな」と
釘を刺された・・・
彼は学生時代、走るのが速く運動神経もよかったのです。
中学生の頃、いつも羨ましく思っていた私は彼に聞いた事があります。
「どうしたら、速く走れるの?」と。答えは簡単でした。「ひたすら走る」だったのです。
それってなんのアドバイスにもなってないやんけ!
でも、本人にも分らないことなのかも知れません。
別の人にもきいたことがあります。
彼女も幼い頃から走るのが速くて、いつも一番だったそうです。
そのことが、本人はイヤだったそうなのですが、気がつくと先頭を走っていて、「なんで、みんなは遅いんだろう?」と
思っていたそうですから。
こういったことは、運動神経だけじゃなくて、創作全般、個性が現れることにいえることなのですよね。
「なんで、上手なの?」と聞いたところで答えなどない。

ここはニューヨークです。わんさか人がいます。
白人、黒人、アジア系、プエルトリコ系、スパニッシュ系、ヨーロッパ人系・・・。
詳しくはわからんが、とにかくすれ違う人、すれ違う人、言葉が違う。中国人?いや、韓国人・・・?
いや、ベトナム人?黒人?さっきの人はそうだったけど、この人はアフリカ人?
あれー?なに人?フランス人?違う、違うイタリア人。ドイツ人?・・・わからーん。
ニューヨークは「人種の坩堝」といわれているが「こういうことか」と実感した。
複数の言語が飛び交う街。
「アメリカンドリーム」なるものの実態はわからないが、みんな希望を求めてやって来て、成功を願って生きている。
それがアメリカなのだろう。
私は頭の中を英語モードに切り替えないと、何を言っているのか通りすがりの人の会話まで聞き取るのは難しい。
切り替えても怪しい。だけど、友人は違った。
さすが留学してるだけの事はあって、普通に耳に入ってくるらしい。
「やっぱ、危険なんじゃないか?」「なんで?」「言ってることが危ないし、汚い言葉使ってる」
「ふーん」私たちは、ブロードウェイ・Ave. との分岐点まで行って引き返したのでした。
充分ブロードウェイの華やかさは堪能できましたし、あのネオンさえ見れればもう満足。

まだ、夕飯を食べてません。ホテルに戻りながらピザでもテイクアウトしていくことにしました。
確か、ホテルの近くにあったはずです。
ドアを開けたとたん「うわっ!まただ・・・」空気が一変した・・・白人はひとりもいませんでした。
黒人と、あとは・・・プエルトリコ系の人たちが、両サイドに並んでいるテーブルで
ビンビールを飲みながらピザをつまみに斜め前方のテレビで野球観戦していました。
真ん中の通路を緊張しまくりで注文カウンターに進みます。
「(尻なんか触んないでしょうね)」と内心ハラハラものでしたが、あとで「映画の観すぎだ」と
友人に言われちゃいました(笑)実際、子供のお使いぐらいに思われたのでしょう。
何事も起きませんでした。
何にしようか・・・マッシュルーム、コーン・・・悩んでいる私をほったらかしで、
友人は「・・・free、OK?」などとセコク交渉してるではないか。「何がfreeなの?」後で聞いたら、
ドリンクが残り少なかったのでタダにしてもらったんだと。

ホテルの私の部屋は、この旅行に参加している‘奥様’といっしょです。
奥様は45歳くらいの人で、明るくて朗らかな方でした。
この旅行中、部屋はこの方とずっといっしょでした。
ピザと、やっぱり近くのお店(ここの主人は中国人だった)で調達したフルーツを3人で食べた。
部屋の外は摩天楼の夜景である。
窓からは、エンパイア、ロックフェラー、パンナムビルなどが豪勢にライトアップされているのが見えて、
その向こうに漆黒のセントラルパークが見えていた。
絶景かな、絶景かな、絶景かな。贅沢ここに極まり・・・。

友人を下のホールまで送って行った帰りに、エレベーターの中で黒人の人とふたりきりになってしまった。
摩天楼か?というほどの長身で、超怖かった。エレベーターに乗るときは大勢で乗らねば・・・





滞在5日目

6月18日

FREE TIME in N.Y
今日の予定は、はじめにウォール街経由で自由の女神を見にリバティ島に渡り、
そのあとは近代美術館、メトロポリタン博物館、グッゲンハイム美術館・・・
それから・・・ダコタハウス。今考えると、無謀だった。こんなに回れるはずがない。
しかし、当時の私はこの予定をこなす気でいたのだから正気の沙汰ではない。

ウォール街
証券取引所でしょ?マイケル・ダグラスの映画「ウォール街」があったじゃない。
そんなに広くない道路の両側に壁のようにビルがそびえているので、昼でも暗い。
真正面に見える黒いゴシック様式の教会、トリニティー教会が印象的だった。
19世紀の50年間は、この教会がニューヨークで一番高い建物だった。

  
ウォール街からトリニティ教会を臨む


世界貿易センター
今はなきツインタワーです。高さ442、8m。110階建て。
シカゴのシアーズタワーに次いでアメリカで2番目に高かった。(1988年当時)
日系建築家ミノル・ヤマサキのデザイン、44階と78階で重ねてある3層構造。
1973年完成当初は外観を損なうとの批判もあったが、シンボル的存在になった。
2001年の事件で尚更拍車がかかったのでは・・・

リバティ島
フェリー乗り場に到着。英語ができる友人に任せて、何も考えずにフェリーに乗った。
これがいけなかった。自由の女神が遠ざかるではないか!
「ちょっと!どういうことよ!」
「ごめん、フェリー間違えた・・・」 
「どうすんの?」
私たちはマンハッタンから一般の人が住むベットタウンへ向かうフェリーに乗ってしまったのだ。
これからは友人を当てにするのはやめようと固く心に誓った私でした。
いや今になって思えば彼は確信犯だったのかもしれない。
「このまま乗ってれば戻るそうだから・・・」と、こういう事だけしっかりしてんだから(怒!)
米粒のような「自由の女神」しか見ていない私です。しかも往復。
「(いつか絶対に見に行ってやるう!)」

 遠ざかるマンハッタン、ツインタワー健在の頃・・


 「えっ?」自由の女神も遠ざかる・・・


ニューヨーク近代美術館
再度行きたい場所です。
ここでは時間を決めて、ホールで待ち合わせることにしました。
彼は‘近代物’私は‘古典物’が見たいからです。特に素晴らしかったのはアンリ・ルソーです。
フランスに生まれたアンリ・ルソーは、兵役を経て、パリ市税徴収員(下級)として働きながら絵を描いていた。
1890年を境にタッチが一変します。
代表作に「戦争(パリ・オルセー蔵)」「女蛇使い(パリ・オルセー蔵)」「眠れるジプシー女」「夢」などがある。
以上はいずれも1890年以降の作品です。
そして、晩年になればなるほどジャングルが背景に登場するようになります。
しかし、彼はパリから外に出ることはなかったそうですから驚きです。

私は、画集で見て好きな画家のひとりだったのですが、この時、思いがけず
(ここにどんな作品が収められているのか、予習していなかったのです)
「眠れるジプシー女」(別紙参照)に会った私は、本物の持つ迫力に圧倒されました。
月夜の砂漠に横たわって眠るジプシー女の肩に、たてがみのライオンが寄っている。
ジプシー女は杖を持ちマンドリンを横に置いて疲れて眠っている。死んでいるのか?
「本物見なきゃウソだ・・・!」と心底思いました。
それからです、私が日本で開催される大きな美術館展に足を運ぶようになったのは・・・
ルソーの絵は大きいものが多いのですが、「眠れるジプシー女」の絵の中に吸い込まれてしまったか、と思うほど
リアルでした。
「夢」(別紙参照)は更に大作ですが、個人的には「眠れるジプシー女」の方が好きです。
ルソーの絵の中で気に入ってる一枚に1886年「カーニヴァルの夕べ」というのがあります。
タッチが変わる以前の作品で、フィラデルフィア美術館に収められているのですが日本で見る機会がありました。
明るい月に照らされたアベックがカーニヴァルに向かうのか、帰りなのか黒い森の中を歩いている。
なんとなく好きな絵なんです。もちろん、よかったですよ・・・

ゴッホ、マチスもすごかったです。
ゴッホでは「星月夜」(別紙参照)思いのほか小さいので驚いた。
「やっぱ、画集では掴めないのよね」
このあと1994年安田火災でのゴッホ展や1996年横浜のゴッホ展でまとめて見る機会があり、
その迫力に圧倒されっぱなしです。
「(なぜ生前に一枚も売れなかったのか不思議〜)」ですよね・・・

私がその色使いにおいて尊敬しているのが、クロード・モネです!
この人の色はなんだろう・・・どうしてここに、この色をおいて・・・こうなっちゃうの?
と、私には解明不可能なのです。凄すぎるー!!
ここにあるモネは「睡蓮」でした。円形の専用スペースに一面の睡蓮・・・
「(ここに布団しいて昼寝したら気持ちいいだろうなあ)」とバカな事考えてしまった私でした。
モネを好きな画家で名前を挙げる人は多い。私もそのひとりです。
96年セゾン美術館、東京都立美術館、94年ブリジストン美術館、それに仙台美術館で見たこともありました。
何度見ても厭きません。本当に絵の上手なおじさんです。
目が見えなくなりかけても描いていたんですものね、半端じゃないですよね。

陽が傾きかけた夕方の空の色で、オレンジでもない赤でもない、空の青でもない
少しピンクがかった色が雲に反射していたりする時あるでしょ?
通勤帰りなどに、この色の空を見かけると勝手に名づけた
「モネ色ピンクだ・・・」
と、うっとりみとれてしまう私です。車運転中は危ない危ない・・・

マチス「ダンス」(別紙参照)ピカソ「アビニョンの女たち」(別紙参照)シャガール・・・
私はこの時、初めて本物の絵画をまともに目にした。いい目の肥やしになった。

時間だ・・・いったんホールに出てミュージアムショップで買い物していたら友人がやってきた。
アンディ・ウォーホル見た?」といきなり聞かれた。
こっちはアンリ・ルソーですっかり感激してたのに、なんだって?アンディ・・・ウォーホル?
「だれそれ?」 近代物はダリ(別紙参照)でさえパスの私である。まったく聞き覚えもありません。
「見たほうがいいよ、戻ろう」「だってもう出て来ちゃったじゃない・・・」
「大丈夫だよ。これあるから」と、彼は黄色の半券(‘ふせん’みたいなの)を私に見せ、「持ってるでしょ」という。
「持ってないよ・・・何これ?」
彼が言うには、ロビーのアナウンスで、この黄色の半券を取って外に出れば再入場できると
言っていた、と言うのだ。知らないよ!聞いてないよ!わかるわけないじゃないの!
そういうことは先に言えよっ!だった。
でも、結局彼がかけあってくれ、私のヒアリングでは「この人、日本からわざわざ来たんだ。
半券を取るの忘れてしまったけど・・・ほら、俺のはあるんだ。入れてくれないか・・・
すぐ戻るから・・・」私も、うんうんと大きくうなずいてみせたりした・・・
ガンとして入れてくれなかったが、憐れな子供と思われたのか、結局入れてくれた。

アンディ・ウォーホルは地下の展示室にあった。地下がある事すら知らなかった。
行って見ると確かに彼独特の世界があった。「この人まだ生きてるんだぜ」と言うではないか。
「それって、すごいじゃない!もう美術館入りしてるなんて」
例の、マリリンモンローなどの写真にペインティングしている手法のポスターが、ずらり展示されていた。
近代物には興味のない私だったが、マンガの‘ふきだし’をそのまま使っている・・・
ロイ・リヒテンシュタイン(別紙参照)という作家の作品などもよかった。

私たちは約束どおり、地下だけを見て入り口に戻ってきた。
入れてくれた人にもちゃんとお礼を言って・・・

バスで移動
次の目的地までは少し距離があるので、バスに乗った。
親切な黒人のおばさんが降りる場所で、声をかけてくれたので本当に助かりました。
‘憐れな異国の子供たち’と思ったのでしょう。明らかに子供に話す口調でした・・・

グッゲンハイム美術館
再度行かなければならない場所です。
なぜなら、近代美術館でゆっくり見すぎたため、入館時間を過ぎてたのです。
ガーン!
ここの美術館は、はじめに最上部へ上り、館内のらせん状のスロープを降りながら
展示を鑑賞する造りに設計されています。でも、もう上へは行けません。
ガックシしている私をほったらかしで、またまた友人はなにやら交渉を始めています。
「ちょっと、ちょっと・・・」と手招きするではありませんか。
何事かと思ったら、「入れてくれるっていうから、あそこ(スロープ)に立ってろよ。
俺、写真とってやるからさ!」「えー!美術館内で写真撮っていいの・・・?」
「いいから、まかせろって」私は出口からスロープを上って、写真を撮ってもらったのでした。
しっかり、見張られてましたけどね・・・
おまけに、入れてくれた係員の人ともツーショット写真撮っちゃいました。

フランク・ロイド・ライトが設計した外観の曲線の美しさだけでなく、彼のおかげで本当だったら
見れなかったはずの館内まで見ることができて、本当だったら禁止のはずの写真まで幸か不幸か撮ることができた。
貴重な写真です。
また、遠路はるばる・・・うんぬん・・・と口説いたのだろうか。

   内部のフォルムも螺旋で統一


フリック・コレクション
ここには入場することができました。
でも、特別印象にも残ってませんし、行かなくてもよかったかも・・・。
ひととおり駆け足で見て出ました。だって、まだメトロポリタンが残ってるんだもの・・・。

メトロポリタン美術館
出なおさねばならない場所です。なぜなら、ホールにすら入れなかったのです。遅すぎました。
そもそも、ニューヨークの美術館を3ヶ所も‘はしご’しようなどと最初から無理だったのです。
結局、まともに見たのは近代美術館だけ。
メトロポリタンなんて、一日じゃ見終わらないかも・・・出直します。

 遅すぎた到着・・・メトロポリタン美術館


ダコタ・ハウス
今まで見てきた、美術館は全部セントラルパークの東側、5番街に面していました。
セントラルパークの西側には高級アパートが多くジョン・レノンが凶弾に倒れ、
現在もオノ・ヨーコが住む自宅ダコタ・ハウスも72丁目にあります。

私は、セントラルパークを突っ切って行こうと考えていました。
南北に長い公園ですので、横切るのはさほど時間はかからないだろうとタカをくくっていたのですが・・・広いじゃん。
はっきり言って「森」です。歩けど歩けど終わらない。あなどりすぎでした、結局20分もかかってしまった。

到着したダコタ・ハウスには当然門から中には入れません。
重厚なレンガ造りのマンション全景を眺め、ジョン・レノンが撃たれた門まで行ってみて、
オノ・ヨーコが住む最上階を見上げたのでした。
「ここからだったら、セントラル・パークも、絶景の夜景も思うままね」と思った。
でも、もはやジョンはいない・・・。

 入り口の門で銃弾に倒れた


地下鉄
予定は達成できなかったが、とりあえず回ったことは回った。あとはホテルに戻るだけ。
セントラル・パーク西南端にコロンブス像がある。
カーネギーホールを通って、セント・パトリック教会の前に出た。
ゴシック建築の白い大理石を使った高さ100mほどの2本の尖塔は、ここ5番街にあって
ひときわ目立った存在である。
ニューヨーク最大の教会で、アイルランド系市民の守護神が祭られている。
中には入らなかったが、ニューヨークでは教会建築が異様な空間に感じられるから不思議だ。

 カーネギーホール   セント・パトリック教会


ロックフェラーセンターから地下鉄に乗った。
ニューヨークの地下鉄は事件が多く、それこそ治安が悪いと聞いていたから、
私ひとりだったら乗ることはなかったろう。
私の記憶違いかもしれないが、地下3階くらいまであったように覚えている。
3層構造の地下鉄の駅は古く、地下鉄の車体は落書きを消すためにペインティングされていて
きれいに銀色に塗られてはいるが、中は落書きだらけだった。
それに車体をきれいに塗ったところで‘銃弾の痕’までは消せない。
いたるところに撃ち込まれた弾の痕が付いていた。
車内の落書きは別に害にはならないが、怖かったのが‘電球’であった。
何両か連結されているわけだが、私が乗った車両の電球がバチバチいってるうちに突然切れて
真っ暗になってしまう。しばらくするとまた、復活してバチバチいってる・・・。
周りの乗客は100%摩天楼長身の黒人だった。
(空いていたのでみんな座っていたが)私はたまらず、隣の車両に移動した。
今思えば、黒人と見れば怖がっていた私でした。
こういう意識が差別を生んでいくのでしょうか?
可笑しなものです。吹き込まれた話(事実ではない)や、潜在意識(現実ではない)に左右される心なんて、
所詮‘まやかし’なのに。
あるがままを感じ取り、更にその中の真実だけを見極める「目」をもって尚、がなければ「否」と
はっきり言える‘強くて公平’な人になりたいものです。
仏教の「八正道」の実践ですね。
待ってても仏陀は救ってはくれない、己が己を救うしかない。
私は自分にも他人にも‘強くて寛大な’人間になりたいっス。

この旅行で、自分の「目」に「耳」に正直になるということを痛感した私です。
美術館しかり、人種しかり・・・私の「思い込み」などというのは、真実を捉えてはいないのです。
まず実際に「この目で見る」ことなのではないかな?と感じたのでした。





6月19日

国内線
帰りは、ニューヨークの空港からアメリカの国内線でロサンゼルス乗継で帰ってきた。
ニューヨークからロサンゼルスまでの国内線は小型飛行機だった。
ロサンゼルスまでは4時間ほどの飛行時間だったが、この時ばかりは、とにかく長く感じた。
というのは、途中から耳が痛くなりだして、少しのガマンもできないくらい痛くなってきたからだ。
「耳が爆発するんじゃなかろうか」と思ったほどだ。大げさではありません。
気圧の関係なのだが、あのような経験は一度でたくさんです。
気の毒がって、スチュワーデスさんが、飴を持ってきてくれたり、ヘッドホンを貸してくれたり
気遣ってくれたけど、まったく効果なし!耐えるしかなかった。できることなら途中下車したかった。

そんな中‘グランドキャニオン’が見えるというアナウンスが、キー
鳴っている耳に飛び込んできた。
雄大な自然が眼下に広がっていたが、やっぱりそれどころではない私だった。
アメリカ滞在最後に‘グランドキャニオン’の大きなおまけがついて、幸い私の耳も爆発せずに済んだ・・・。
もはや、アメリカという国に関心はないけど見損ねた美術館には、いつの日か行きたいものです。



1988年ニューヨーク完

追 記
この時の友人は米留学を終えて、その後タイに行き行方不明となりました。達者でいるだろうか?








vol.84