1997年 北京最終回

第2回 1997年9月24日

滞在7日目 西安〜北京

西安空港
今日で最後の観光になった。長いようで短い滞在だった。
朝、西安から北京へ飛行機で移動する。最後の最後には‘万里の長城’が待っている。
またしても母の反応が楽しみだ・・・。

西安空港内で中途半端に時間があった。待っているには長い、されど買い物するには短い。
買うつもりもなく時間つぶしに売店を眺めていたら、母がシルクのブラウスを見つけた。
気に入ったようだったので、サイズを聞いたら「大丈夫よ!」と、言う。よっく見定める時間もない。
「本当に大丈夫?小さくない?」と、私が念を押しても
「大丈夫!見ただけでわかるわよ。こんなに余裕があるもの。」では、交渉開始!

・・・とここで、「搭乗開始」のアナウンスが・・・既に母の姿は消えている。
言いっぱなしかよ!(←サマーズ三村のつっこみで)
ここで買わずに逃げだすわけにもいかない。
木村さんも買い物を手伝ってくれて、なんとかギリギリセーフで、お買い上げー。
それにしても、母ときたらシラッ、としたもので、「もう!自分さえ乗れれば、いいんかい!」
「元はといえば、あなたの買い物なのよ!」と、食ってかかったが、
「それは、どうもごくろうさん」でおしまい・・・。
木村さんまで巻き込んで、やっとの思いで買ったこのブラウス。
結局、母には小さすぎて着れませんでした・・・。だからあれほど確認したのに・・・(涙)
大忙しの西安空港でした。側女はつらい・・・(涙)


雨の天安門
北京は雨だった。ひどい降りではないが、傘が必要だった。


雨の故宮
故宮の有料トイレに行く。母はトイレが有料だなんて思ってもいない。
「トイレに行ってくるから」と、さっさと行ってしまった。
「ちょっと、まっ・・・」呼んでるのも聞かずに行ってしまった。
追いかけていくと、案の定ブースを素通りしていた。私は「ヤオ、リャンチャン(二枚)」とフォロー。

‘太和殿’は外朝(公式の儀礼を執り行うところ)の正殿で、高さ35m。
中国に現存する最大の木造建築物である。
「骨肉の争い」が日常茶飯におこっていた中国で、世継ぎの継承は一大事である。
内朝の‘乾清宮’に「正大光明」と書かれた額が掛かっている。
この額の裏に箱があって、その箱の中に次の世継ぎの名前が書いてある紙を入れていたという。
皇帝の死後でなければこの箱を開けることができなかったため、不正はなかったというが。
本当かなあ?‘箱を開けることができなかった’ことは事実でも、いったん名前を書いてから、
その世継ぎが毒殺や、陰謀で消されたら、また書き直したのかなぁ?

 ‘乾清宮’内部


雨上がりの八達玲長城
バスで片道約3時間。バスの中で、母がとんでもないことを言い始めた。
「・・・パスポートがない・・・」

「にゃにー!!!」「ウソでしょう?」
ごそごそ探しまわる母の顔は青ざめて真剣そのもの。
「だから、私が預かるって言ったでしょう!」
「そんなこと言ったって・・・」母もおろおろ・・・。
「とにかく、よ〜く、探してよ。」と言うしかない・・・
私は、すでに頭の中で「大使館に連絡しなきゃ」「余分な写真持ってきてない・・・」と、再申請の事を考えていた。

「あった!」
「にゃにー!!!」「どこに??」
母は小さなポシェットをたすきがけにしていて、その小さなポシェットがクルリと180度回転。
真後ろにいってたのだ。ポシェットの上に雨なのでジャケットを着ていて見えなかったのです。
パスポートはそのポシェットの中に入れていたのでした。
本当にビックリした・・・。寿命が3年は縮んだよ・・・。
正確には‘失くした。’のではなく、‘見失った。’だけなのでした・・・。人騒がせな・・・。
ハー疲れた・・・グッタリ。でも、見つかってよかった(安堵)

そんなハプニングもありながら、クライマックスの‘万里の長城’に到着です。
雨上がりで霧に煙ってる・・・。靄がかかって見通しが悪い。
天候が悪くてハッキリ見えないにも関わらず、「すぐ来た!」と母は言いました。
「エッ?なにが?」と私。
「この石を積んだ人。工事をした人の苦労が。と・・・。
「ほほお。」(忘れた頃にいいこと言うじゃん!パスポート失くした人とは思えん・・・)

初めてここを訪れた母を、烽火台(のろし)まで連れて行こうと思っていた私ですが、
‘男坂’は母には厳しすぎたようです。途中まで登って、あとは丹念に石垣を見てまわりました。
(右が急な‘男坂’。左が砂漠方面‘女坂’。)
石垣はモルタルで補強されていたり、どうみても新しい石です。
当時の石がどれだけ残っているものか、といっても秦代のは皆無でしょう。
残ってたとして、明代でしょうか・・・。

1994年、ここを訪れたとき私にはやり残した事があります。それは・・・(1994年北京参照)
「ラクダちゃんといっしょに写真撮りたーい!」です。

幸い、3年前と同じ場所で、ラクダちゃんはまだ営業をしていました。
宮廷の衣装を着て記念撮影もできます。
ええい!大盤振る舞いだ!有り金全部使ってでも撮るぞー!」

母は、皇太后スタイルで。私はお姫様スタイルで。
規則はポラロイド撮影で1枚なんだけど、私のカメラで撮ることに交渉して決めた。
さすが、営業許可(?)とってるだけの事はあります。
できあがった写真を見ると、バックが絶好の長城ポイントでした。

さあ、いよいよラクダちゃんです。エジプトあたりの暑い砂漠にいるラクダはひとこぶラクダ。
ここ北京のように比較的寒い地方にいるのは、ふたこぶラクダ。
ふたこぶラクダちゃんには、脚立で上ります。嬉しい♪
ラクダちゃんの背中にはお客さん用に毛布まで敷かれています。毛が思ったよりゴワゴワです。
母は下で手綱をひく役目です。「ううっ!」と触りたくなさそうな母の声が聞こえます。

カメラをお店のおじさんに渡して、撮ってもらいました。
ラクダちゃん、ちゃんとカメラ向いてくれるかしら。・・・カチャッ!
「横でも撮ってー!」ラクダの上から声をかけます。・・・カチャッ!
できあがった写真を見ると、さすがプロ!ラクダちゃんはしっかりカメラ目線なのでした。

私は、3年越しの思いが叶って大満足。

母はこのあとも「ラクダは臭いっ!」と言ってききません。
「私はなんでもなかったわよ、かわいかったあ♪」なのですが、よくよく考えてみると
母はラクダの口元で手綱をひいていたものだから、ラクダの‘吐息’が直接あたって臭かったのだと思います。
それにしても、生ラクダちゃん可愛いかった♪

北京市内へ戻る途中、事故か何かでバスが立ち往生、大渋滞となった。
立ち往生して進まないバスの横を、本日の営業を終えたラクダちゃんが、通り過ぎたのでした・・・。
ここが私たち最後の観光地でした。
私は最後の有り金をラクダちゃんに使い果たしたのでした・・・。


北京ダックの夜
最後の夕食は北京名物‘北京ダック’です。他にもたくさんの中華料理が並んでいます。
私は、北京ダックを以前も食べているはずなのですが、あまり印象にありませんでした。
美味しいとも思わなかったし、「ふーん、これが北京ダックかぁ・・・」ぐらいの印象しかない。
母は初めて食します。コックさんが目の前でさばいてくれて、各テーブルへお肉が運ばれてきます。
助手の方が一人一人に、味噌をつけて、ねぎ挟んで、作ってくれました。
「どう?」と聞くと、母は「少し、油っぽいわね」と。
「そこがいいのよ、皮が美味しいんだから」と私。母も特別気に入った様子はなかったのでした。

 巻いて巻いてパクッ!


北京ダックは、お肉をとって、味噌つけて、ねぎ挟んで、巻いて・・・やっと口に入る。
蟹は殻をむかないと食べられない。ものぐさな私にはどちらも手間がかかる。
私は、面倒くさいのは好きじゃないので、‘すぐ口に入る’ほうが好きだ。
私たち親子は北京ダックは他のメンバーに任せて、テーブルの中華料理で満足していたのでした・・・。


‘ライスマン’のこと
毎食必ず、ご飯と面包(中国の蒸パン)が出ます。
だけど、みんなは料理だけでお腹いっぱいになってるので、ご飯や面包には目もくれない。
手もつけない。今回の参加者に30歳くらい(推定)の男の人がいた。
彼は、最近赤ちゃんが生まれたばかり。一人で参加していたのだ。
「この旅行が自由にひとりで参加できる最後の旅行です」と、寂しいことを言っていた。
おば様方に「なーに言ってるの!奥さんとまた来たらいいじゃないの!」とからかわれると、
「もう、ひとりでは来れないですよ・・・(ドヨ〜ン)」と、悲しそうだった。
その彼が、毎食のご飯を一人で引き受けて食べていたです。
「(またご飯食べてる・・・)」密かに観察していた私は、彼のことを‘ライスマン’と呼んでいた。
ご飯が出てくれば彼のところへ円卓を回してはからかっていた。

彼は、どうして美味しくもないご飯を食べるのか?
不思議だったが、おば様方は「若いから」と言っていた。本当にそうなんだろうか?
本人に聞いたところ「やっぱりご飯食べないと・・・」と、合点のいかない返事。
でも、私は食事のたびに、ご飯を食す彼を感心して眺めていたのでした・・・。

そういえば、うちの母も、お世辞にも美味しいとはいえないご飯を、
美味しくする魔法の方法を発見していた。名づけて‘ツァク、ツァク方式’
ご飯が出てくるころにスープもいっしょに出てきます。
そのスープを(種類は問わない)ご飯にかけて、お茶漬けのようにして食べるのです。
これが驚きの‘大発見’だった。私も半信半疑で試したところ、見事にご飯が美味しく変身したのだ。
木村さんもこの母の‘ツァク、ツァク方式’愛用し、密かにブームを巻き起こしたのでした・・・。

私はといえば、なんの芸もなくただ食べるだけでしたが、‘魚料理’は任せて!なのでした。
中国の魚料理は、川魚が多いので小骨がジャマで倦厭されていました。
ご飯のライスマン。魚のtuzi・・・。この小骨を苦にもせず挑戦するのは私ぐらいのものだったのです。
この晩も魚料理がでてました。今までで最大級の見事な魚料理をはりきって食べていたら、
「ウッ!」小骨が喉に引っかかった。・・・まあそのうち自然に取れるだろうと食べ続けていたのだが、
取れるどころか、息も出来なくなってきた・・・マズイ。
「(洗面所に行って骨を抜かねば・・・でも、どこだろう・・・?)」
気付かれないように席を立ったはいいが、どっちに行っていいやらわからない。
もう息が出来なくなりそうだし、声だってでないかも・・・おろおろする私。
涙まででてきた。鼻もでてくる・・・。

出口付近で立ち話しているお店の人らしきを発見。
とっさに「チン、ウェン。ツーソーツァイナー?(お尋ねします、トイレはどこですか)」と、聞いていた。
「あっち」と指差され、お礼もそこそこにトイレへ一目散!
骨は、喉の奥にグッサリ刺さっていて、抜いたあとに血が・・・顔は涙と鼻でグッショリ・・・。
もう、死ぬかと思った。魚を食べるときは小骨に充分気をつけよう!

落ち着いてからこの時のことを思い出すと、あの緊急事態に、中国語がとっさに出てきたなんて、運がよかったなぁ・・・と。
中国語に救われました。
「トイレはどこですか?」は中国語の初歩の初歩ですが、緊急事態で役に立つとは・・・。
外国語の基本は‘あいさつ’だと思っています。
始めて会う人に元気良く‘あいさつ’が出来て、自分の名前がはっきり言える。
これさえ出来れば、あとは‘心’です。言葉は気持ちを正直に表現するものでなければなりません。
ですから言葉で言い表せないことも時にはでてきます。
こんな時は相手の心を察知するアンテナを持っているかどうかが肝心。
言葉の勉強も大事だけど、他人の気持ちを思いやるアンテナを持つことの方が大事なのでは・・・。
3年半もいったい何を勉強してたの?という情けなさも感じていましたが、
この3年半に至るまで聞き取れなかった会話も、なぜか聞けるようになっていた不思議も今回の旅行で感じていました。
塵も積もればとなる。継続は力なり。
これからも中国語の勉強を改めて続けようと思った私でした・・・。




滞在8日目 北京〜浅草

最後の朝
日本に帰る飛行機は午前7時50分発。
2時間前には空港に着いていなければならないので、ホテルを出発したのは5時頃でした。

みんなバスに乗り込んだのにひとりだけ遅れています。ライスマンでした。
安心したのでしょうか、迎えに行った徐さんが「まだ、寝てました。もう少し待ってください」と戻ってきました。
バスの中はブーイングの嵐。ライスマンは30分も遅れて寝癖ボウボウの髪で現れました。
みんなに、たっぷりからかわれたのは、言うまでもありません(笑)

今回の中国旅行はこれでおしまいです。
母は、大好きな買い物も自由にできず、頼りない娘と一緒でさぞ気疲れしたことでしょう。
ライスマンも、緊張の糸が最後の最後で切れちゃったのかも・・・。


イラン航空のスチュワーデスさん
イラン航空のスチュワーデスさんは、真っ黒い衣装で頭まですっぽり布を覆っています。
出てるのは顔と手だけ。手も、手首から袖がめくれないようにしっかり縛っています。
イスラム教のいでたちです・・・。でもよーく見ると、顔がみんなかわいらしいのです。
年齢は18歳から23歳といったところでしょうか。
私は不謹慎だ、と思いながらも‘だめもと’でスチュワーデスさんに聞いてみました。
「いっしょに写真撮ってくれませんか?」と・・・。答えは意外にも「OK!」でした。
言ってみるものですね。でも、彼女、写真映りが良くなかった。本当は可愛いかったのに・・・。

 本当はかわいかったのよ・・・


浅草
成田に到着したのは、お昼の12時頃でした。
まだ時間も早いので、このまま移動して浅草に寄ることにしました。

そのあと、上野で寿司と天ぷらを食べた。

 「交通安全実施中」


・・・盛りだくさんの旅行だった。
母は初めての海外旅行でもあるし、ケチな‘お目付け役’はついているしで、さぞや疲れたことと思います。
そんなことも含めて「好い思い出」になってくれれば、娘としてありがたいのですが・・・。



1997年母との中国完



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vol.30