1988年 ワシントン

第1回 1988年6月13日〜6月19日

滞在1日目
初めての海外ひとり旅
前回、2年前の海外旅行は友人のandokoさんといっしょだったが、今回は頼る相手もがいないひとり旅である。
思い切ったことをしたものだ。
いきさつは、西海岸を前回見たことに気をよくして、調子に乗って東海岸も、というのがひとつ。
それともうひとつは、サウスカロライナ州に中学の時の同級生が留学していて、
手紙のやりとり(当時パソコンメールなどなかった)があったので、会えたらいいな、と思って・・・

海外旅行2度目とは言っても、初めてのひとり旅である。
まわりからは「ニューヨークは治安が悪いから、ひとりで行くのは危険だ」と散々脅された。
でも、ロサンゼルスの時とは違ってニューヨークには‘行ってみたい’という願望があった。
私はまがりなりにも建築を学んだことがある。
就いた仕事は畑違いだったが、この当時は私もまだ若く、建築へのこだわりもあった。
摩天楼といわれる、ニューヨークには近代建築の有名どころがそびえている。
フランクロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館などは建築としてだけでなく、
館内の絵画にも大いに興味がある。
それに、最先端を行くアメリカの中心都市を是非見たいと思っていたのだ。
首都ワシントンより、断然ニューヨークという街に憧れと関心があったのだ。



6月14日

空港
これを書くに当たって当時購入した簡単なガイドブックを引っ張りだしてきて読み返していたら、
‘ワシントンには3つの国際空港がある’とのこと。
「えっ!そうだったの?・・・どこの空港だったんだろう?」と考えたところで今さら思い出せるはずもない。
なにせ、乗った航空会社すら忘れているのだから・・・。

とにかく、到着したのは時差の関係で昼だった。到着してすぐに観光が始まった。
高速路線でよく見かける銀色のやたらでっかいバスに乗り込み、ワシントン観光へ。

ホワイト・ハウス周辺
リンカーン記念堂はギリシャ神殿風の白亜の建物で、階段を上がると堂の中央に椅子に座った
第16代大統領リンカーンの巨大な像がある。
壁には「人民の、人民による、人民のための政治」で有名な1863年ゲティスバーグ演説と、
2度目の大統領就任演説が刻まれている。

 リンカーン記念堂


 巨大リンカーン像


リンカーン記念堂の前には長方形の人工池リフレクティング・プール(長さ690m)が延び、
その池の向かい側にワシントン記念塔がそびえている。
シンプルな鉛筆形の塔は、石造りの塔としては世界最大(1988年当時)で、高さ169m、
初代大統領ジョージ・ワシントンを記念したものである。
私はリンカーン記念堂から見ただけなので、よくわからなかったのだが、塔の下には
アメリカ50州を象徴する50本の星条旗があるそうで、エレベーターで頂上展望台に昇れるそうです。

 リンカーン記念堂からワシントン記念塔を見る


アーリントン周辺
アーリントン国立墓地
およそ200haの敷地にはアメリカの国民的英雄と10万人を超える戦死者が眠っている。
この墓地では星条旗は常に半旗である。

J・F・ケネディの墓
1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された第35代大統領
地面に埋め込まれた黒いプレートの後ろには‘永遠の火’が燃え続けている。
周囲の低い大理石の壁には彼の演説が刻まれている。
近くには、ケネディの子供たちの墓や弟ロバート上院議員の墓もある。

ダラスでの暗殺シーンがテレビで何度も放送されるが、奥さんのジャクリーンが車の後部に
身を投げるようにして何か拾っている。
・・・それは、ケネディの撃たれて飛び散った脳みそだったんだと。いやー、凄い女や!
と思っていたら、ギリシャの大富豪オナシス氏と再婚したから、やっぱり敏腕女だ!
どちらの男も浪費家の彼女に手を焼いていたという。でもその彼女を選んだんだから、仕方ない。

アーリントン・ハウス
ケネディ大統領の墓の上方、丘の上にギリシャ風の建物がある。
私はここの墓地の管理事務所か何かだと思っていたら、そうではなかった。
ジョージ・ワシントンの養子のカーク・パーティスが建て、娘とその結婚相手のリー将軍に贈った由緒ある邸宅だそう。
南北戦争時軍に没収され、1883年息子に返却された時、
彼は国の記念館にしてもらおうと15万ドルで国に売却した。

 アーリントン墓地とアーリントンハウス


キャピトルヒル周辺
新首都ワシントンの設計(都市計画)を依頼された、フランス人ピエール・ランファンは、
この周辺に政治の中枢を集結させた。ピエール・ランファンの都市計画は実に明解で、
各ゾーンごとに同種類の機能をまとめて配置しています。

キャピトル(アメリカ合衆国議事堂)
原設計、ウイリアム・ソーントン。
施工、アメリカ最初の職業建築家チャールズ・ブルフィンチ等による。
1793年着工、1800年11月完成。その後増改築が繰り返されている。
1988年当時は長さ250m、幅115m、部屋数は540を超える。
ドームの頂上には約6mのブロンズ製自由の女神が立っている。
建物の北が上院、南が下院。中央ドームの下が円形大広間になっていて、
かつて星条旗で覆われたケネディの棺が安置された。

 アメリカ合衆国議事堂


私は外観を見ただけなので、内部には入っていません。
大広間の東側のブロンズの扉にはコロンブスの生涯を描いたコロンブス・ドアーズがあるんだそうで。
壁面を飾る8枚の油絵はアメリカ建国の歴史を描いたもの。
現在の私には、どのように建国が描かれているのか大いに興味があるのですが、きっと、
ネイティブアメリカンは登場しないのでしょう。
登場していたとしても、どのように表現されているというのでしょう?
ここは、ワシントンのシンボル的建物であるキャピトルはホワイトハウスと勘違いされがちですが、
ホワイトハウスの方は、屋上にヘリが離着陸できるように屋根が真っ平らです。
私も当時はこっちがホワイトハウスとばかり思っていました。

モール周辺
航空宇宙博物館
スミソニアン博物館群の中で最大。
ライト兄弟の飛行機、リンドバーグが大西洋横断に使ったスピリット・オブ・セントルイス号アポロの司令船
月の石、などなど・・・を見たはずなのに覚えていない。
そういえば、吹き抜けの天井から吊るされた古い飛行機があったけなあ、とか
ボコボコの黒い石を見たような気がするなあ・・・と、どれも印象に薄い。
私の記憶にあるのは、ミュージアムショップで見つけた宇宙食の‘ドライアイスクリーム’くらいのもので、
これを日本に帰って食べるのを楽しみにしていた。
真空パックされたドライアイスクリームは、空気に触れるとトロリとした美味しいアイスクリームに
変身すると書いてありました。
その後、日々の忙しさにかまけて試食することなしに数年が過ぎてしまい、
「まだ賞味期限切れてないだろうか?真空パックだからまだ大丈夫だよね♪」と
のんびり構えているうちに、十数年が過ぎた。
もうそろそろ食べないと本来の味がわからなくなるのでは、と思い、恐る恐る封を切った。
「・ ・ ・ ・ ・」 何の変化も起きない。時間が経ち過ぎたのね。
思いっきりアウトを食らったような気がした。
「・ ・ ・ ・ ・」 どんなに待っても、しわしわの乾燥した物体のまま、
トロリとしたアイスクリームに変身することは終になかったのでした。
「こんなことなら、さっさと開けるんだった・・・」後悔先に立たずであった(泣)



滞在2日目

6月15日

ウィリアムズバーグ
ワシントン郊外にある、ウィリアムズバーグに一日日帰り観光。
町全体が17〜18世紀の植民地時代の姿を再現している。
コロニアル調の衣装を着た人々が、独立戦争前の長閑な雰囲気を今にとどめている。
日本でたとえるなら「明治村」「日光太秦」だろうか・・・。
時代的にはNHKの「大草原の小さな家」の頃。大開拓時代。

私はこのアメリカ版明治村で、コロニアル調の衣装を着た人々といっしょに写真におさまり、
今まで耳にしていただけのレモネードを初めて飲み、昼食には‘ローラ’のお母さんが焼いたと
思われる美味しいアツアツパイ・・・といっても陶器の容器にパイで蓋になっていて
そのパイの蓋をスプーンでザックザックして、中の熱々クリームシチューに落として食べる、という、
ケンタッキーで売っている‘ポット・パイ’のデッカイ版を食し・・・とっても美味しかった♪
それから2頭だての馬車が通ったといっては記念に写真を撮り・・・というように、ワシントン郊外を満喫したのでした。

   レモネードがとっても美味しかった


キャプテンジョン・スミスの銅像の前でご丁寧にニッコリ微笑んで、アメリカ初の教会を見学し、
この地に碇を落としたという証の記念碑を見て・・・。盛りだくさんだ。

 ジョン・スミスの像


当時のネイティブの生活も再現されていたましたが、この表現は少々原始人扱いなのでは?
彼等のウィグワムは円形をしており、少なくともこの辺には4部族が住んでいたはずだ。
再現者は皮をなめしただけの粗末な衣装でした。
この周辺に住んでいた部族に限定して話せば、ワムパムのジュエリー(肩掛け、ネックレス)
ダチョウの羽、ビーズ細工、ニー・ガーター、フープ形イヤリング、などをあしらったいでたちも考えられる。
(企画集アメリカ・インディアン参照)

       
この描き方はあまりにも原始的過ぎるのでは?    ウィグワムの骨組み


私はこの当時、ネイティブアメリカンのことは何も知らなかったし、アメリカの歴史といえば
コロンブスの新大陸発見から開拓時代を経て、200年ほどの事しか知らない。
その200年だって、南北戦争からのつい最近のことばかりだった。
闇に葬られてしまった歴史や、表舞台に上がることのなかった影の歴史の事は、
恥ずかしながら最近までほとんど知ることがなかったのである。
そんな私だが、なぜかこの時インディアンの図柄の葉書を買っていた。
「なぜこれを選んだのか?」当時から予感があったのか、この葉書は今も手元にある・・・。

(注記) ここからネイティブアメリカンの愚痴話しが延々続きます、興味のない方は最後までとばして下さい。

これまで映画で見たインディアンは、常に悪役で、野蛮で、不潔だった。
そして、これまで写真で見たインディアンは、どの人も悲しい目をしていた。表情も暗い。
笑顔のインディアンの写真は見たことがない。
「(なぜ、彼等の表情は暗いのだろう?悲しげなのだろう?)」と不思議に感じていた。
その理由が判明したのは、つい最近のことです。
アメリカには行きたいと思わなくなって久しい私が、また最近、北アメリカ大陸で行ってみたいと思う場所ができた。
それは、サウス・ダコタ州のブラックヒルズと、ウーンデットニーである。
ワイオミング州のララミーとシャイアンにも行きたいし、アリゾナ州のナヴァホ山も見たいし、
コロラド州のプエブロにも行きたいし、プラット川も見たい。
それから・・・虚しいかな、行っても何もないのはわかってるんだけど・・・

コロンブスが新大陸を発見し、ヨーロッパ人(スペイン、イギリス、フランス、オランダ)が大挙して押し寄せてきた。
その時、ネイティブアメリカンは、この地で生きていくための方法を親切に教えてあげたのだ。
人を疑うことがなかったのである。
その恩を、彼等は彼等のやり方をネイティブアメリカンに強要することで返してきた。
人を疑うことを知らないネイティブアメリカンはできるだけ、そのスタイルを取り入れようと歩み寄った。
平原インディアンの食料は自然のバッファローの狩にあったが、とうもろこしを植え、定住しようと努力もした。
ところが、しごく当然のように許可なく彼等の土地を奪い始めたのだ。
ヨーロッパ人は‘あとからズカズカやってきて’、厚かましいにも程がある。
元々ネイティブアメリカンに土地を所有すると言う概念はなかった。
どこにでも白人の姿を目にするようになり(増殖するアメーバのように)怖かったに違いない。
それまでは、遠くの隣人の部族の他は、見渡す限りどこまで走っても自然だけだったのだから・・・。
「大草原の小さな家」のローラが言った言葉にこんなのがあった。
白人が開拓を進めて、手に入れた土地からインディアンをよそへ追いやる場面で、
「先に住んでたのに悪いわ・・・」と言うセリフ。正にこれではないか!
どうして、土地を奪うことが平気でできたのか理解できない。

こうして東から、あっという間にネイティブアメリカンは姿を消した。
彼等は生活の糧を失って滅んだのである。
危機感を感じた中央や西のネイティブアメリカンはヨーロッパ人の習慣に則って‘条約’を結んだ。
1830年ミシシッピ川から西には手を出さない
という約束を取り付けたのだ。そもそも先に住んでるんだよ。現に生活してるんだよ。
立場が逆だろっ。
プライバシー振りかざして権利を主張するのが得意なアメリカ人が聞いて呆れるっつーの。
とにかく、1830年約束しました。が、守られませんでした。
なぜか。それは1848年、西に金鉱が発見されたからです。
アメリカ人がほっとくわけないでしょう。嘘などものともしない白人です。
1830年の約束はいとも簡単に反古にされ、
新たに1867年メディシン・ロッジ条約でも、アーカンソー川の以南には手を出さない、
と約束をしなおした。
こういう嘘の繰り返しで、‘動物を檻に追い込むような作戦’で、あっちへ追い立てられ、
こっちへ移動させられ、彼等の住む場所は最後にはなくなっていったのです・・・。
さらに、金鉱の作業のため、大陸横断鉄道の建設をし始めた。これが致命傷だった。
ネイティブアメリカンにとって、この建設は‘とどめ’と言うに等しかった。
だって、バッファローの生きる場も無くなるって事よ。それを白人は理解しようともしなかった。
「農業を始めろ」と自分たちのスタイルを押し付けることしか頭にない。
だったら、あなたたち後から来たんだから狩をして暮らせるか?
先祖代々暮らしてきた生活を一変することがいかに大変か理解しようとしただろうか?
勝手にネイティブの土地で、いや奪った土地で搾取し続けてるだけじゃないか。

結局、闘わなければ死んでしまう。ネイティブアメリカンは家族を守るためにしか闘わない。
まともな武器もない彼等に勝ち目はないでしょう。それでも彼らは闘った。
各部族が他の部族と協力し、助け合い、逃げて落ち延びてきた部族を暖かく受け入れ、共に闘った。
(ほとんどは、部族単位で酋長が決定したが)
優秀な酋長がどれほど頭を悩ませ苦労したか・・・。
生きることを選び、闘わずして劣悪な条件の保留区に移り住んだ部族もあった。
しかし、生まれてから北にいたものが、南で暮らせるはずもなく結局死んでしまうケースが圧倒的だったし、
保留区というのは、食べ物を支給され言わば飼い殺し状態の所だから、
今までの狩の生活を奪われ、精神的にも追い込まれることになる。
加えて、保留区に指定されるのは白人が要らない土地だから、水の状態も最悪だ。
毒を飲まされているようなもので、それこそ殺人の沙汰だ・・・とまあ、挙げたらきりがない。

開拓の影で強引な殺戮があり、彼等の自然をズタズタにし、生活を奪い、消し去った。
とても、今のアメリカの繁栄を手放しで讃える気にはとてもなれない私だ。
もう、彼等の生活はどこにもない。今ネイティブアメリカンの精神や考え方に学ぶみたいなことが
言われているが土台無理な話だ。今や存在しないのだから。
それに、ずいぶん虫のいい話じゃないか。奪っておいて今さら・・・と思う。

<書籍>草思社の「わが魂を聖地に埋めよ」ディー・ブラウン著、鈴木主税訳。
      この本の良いところは、某国で保管していた当時の記録だけを頼りに事実だけを伝えているところ。
      小説ではないということです。
<マガジン>ワールドフォトプレスで出してるmonoにネイティブアメリカンの特集号が2,3冊あります。
<映画>ケビン・コスナー主演、監督「ダンス・ウィズ・ウルブス」

私もネイティブアメリカンを具体的に調べようと考え始めたのは「ダンス・ウィズ・ウルブス」
見てからだったように記憶しています。
ネイティブアメリカンには本当にたくさんの部族がありました。
それぞれの文化を知るのは私にとって、楽しみでもあります。
特に、各部族の酋長が発した言葉には胸を撃たれます。彼等には嘘がありませんでした。
白人に約束を裏切られても初めは許していました。
「白人には白人の守る家族がある」というように。
でも、裏切られ続け、終には白人を信じられなくなり「インディアン嘘つかない」
叫ぶようになっていきます。悲しいことです。信じて安心しきっていた相手に裏切られる。
白人はそういう相手でした。1890年最後の平原インディアンがこの世から姿を消しました。
わずか、50年足らずのうちにアメリカ大陸からネイティブアメリカンの生活はなくなってしまったのです。
彼等の表情が暗いのは当然でした・・・目が悲しそうなのも当然でした・・・。

1492年コロンブス(スペイン人)さえ新大陸を発見しなければ・・・。
1620年メイ・フラワー号(イギリス人)さえ到着しなければ・・・。
その後続々と・・・フランス人は、ケベックへ・・・オランダ人はニューヨークへ移民してきた。
やがて、13の州が出来上がると彼等は自らを‘アメリカ人’と呼ぶようになった。
自然を壊さず、減らさず、汚さず、自然と共に生きていた人たちが住んでいた土地を、アメリカ大陸全部を騙し取った。
ネイティブアメリカンには「土地の所有」という概念が元々ありませんでした。
誰のものでもない、ただ存在しているだけのもの。
自分たちも同じ、自然の一部と考えていたのですから・・・

現在のアメリカは他国に介入しまくって、解決を助けている正義の国らしいのですが、
私の目には「今も昔もやってることが変わらない」ように映ります。
中近東の国の土地と人種をめぐる紛争だって、元はといえばイギリスの嘘が尾を引きずっているのではないか。
まったく、どっちが火種かわかりゃしない。フォローがなってないんですよ、言いっぱなしで・・・。
京都議定書だってそう。言いっぱなしで、都合のいいように嘘ついたに過ぎない。

当時のネイティブアメリカンの状況が悲惨だったことを知っている人は少ないでしょう。
だって、誰も知ろうとする人以外に教えようとはしない歴史ですから・・・。

「その場限りのでまかせ」「嘘」に振り回された、インディアンの気持ちは白人にはわからない。
白人が言いそうなことは「あの時は、そう思ったんだよ」です。
でなかったら、「状況が変わった」か、「そっちの仕事の仕方が悪いから出せなくなった」というすりかえ
黙らされることになるのです。

話を蒸し返すようですみませんが、そもそも「(アメリカ大陸を)発見した」とは何事だ。
以前から存在してたものを「発見した」だなんてどうして言えるんだろ?
アメリカの歴史は白人の一方的な見方で作られている。
白人の傲慢さが「発見した」の一言に現われているような気がしてならない。

まあ、現在の私には、この影で起こった出来事を思い大泣きしてしまうであろう、ウィリアムズバーグでありました。
とはいえ、私はとても楽しく過ごしましたし、この旅の中でも「良かったなー」と思えた場所でした。
食事も美味しく、観光でも楽しく過ごしました。



あすは空路ニューヨークに飛び、カナダ・ナイアガラに向かいます。



1988年ナイアガラにつづく








vol.81