ひとり 1994年 北京

 第1回 1994年3月25日〜3月31日

いきさつ
とにかく中国に興味があった。なぜか中国が好きだった。それがいつからだったか覚えていない。
もともと古いもの(千年単位で)が好きな傾向はあった。
今では、私の前世は中国人で黄河流域洛陽の付近に住んでいたのでは・・・と
具体的すぎる妄想を抱くほどまでに・・・とにかく気がついたときは中国の物が何でも好きでした。
初めに意識したのは思想でした。孔子の徳、仁。老子の道、から始まってこれまた何でも。
東洋、西洋問わず哲学、歴史、料理全般にわたって好きな私ですが、やはりその思想を
生み出した土地の空気が吸いたい、ということで長年憧れていた中国に行くことにしたのでした。
また後に太極拳を始めるきっかけともなった、陰陽五行の相克(易経に出てくる、太極の文字が
最初に現れるのも易経)運動神経のない私が、唯一自発的に始めた健康法を生み出した環境には、
現在いかなる空気が流れているのか、それも知りたくて・・・。
「中国ありき」何事もあってのことと思っています。


最初に目にしたもの、大地
機内から大陸を下に見たら、赤かった。
「黄色い大地」と物の本で読んだことがあったが、黄色、茶色ではなく赤かった・・・
北京の空港は窓枠が木枠のガラス窓で、そこから外の滑走路を覗いたら自転車が何台も堂々と、
そして悠々と横切っているのが見えた。


パキスタン航空
空の旅の楽しみのひとつに各航空会社の観察がある。
この日、パキスタン航空に乗った私は、民族衣装(インドのサリーのような)の制服の
スチュワーデスさんに見入り、記念にいっしょに写真におさまったのでした。
空港内は、税関も簡単なカウンターだけで閑散としていて、カウンター越しに向こうが見えていた。
今では、決して戻らない懐かしい光景である。

 パキスタン航空のパーサーと民族衣装の制服を着たスチュワーデスさん


トイレ事情
北京市内に入る頃はもう日も暮れかかっていた。ホテルに到着前に街中の共同トイレに寄った。
見学のつもりで入ったそこで見たものは、四畳半くらいの広さ、コンクリート打ち放し。
真ん中通路で向かい合わせにブースが5対5で並んでいる。
仕切りの高さは、50センチくらい(意味ないほど低い)、ドアなし。想像できますか?
隣との仕切りがあるだけであとは丸見え状態。金隠しもなし、ただ楕円の穴。いわゆるみえみえ。
これだと井戸端でなくても会話ができるというもの。
困ったのは、どっちをむいて用を足すのか?お尻を向けるのか?それとも向き合うのか?
隠せるものは何もないけど、向き合うのが正解のようでした。こういうものだと思えば恥ずかしさもない。
日本では決して体験できないんだぞー、諸君!羨ましいだろー!
なんの違和感もなく、ごくごく当たり前のように、このようなトイレに溶け込んだ私は、
ますます中国が好きになりそうな予感ムンムンです。
細い路地に沈む夕陽がまっかっ赤で、みごとに大きくて、なんとも美しかった。


バスタブ
今回の旅は団体ツアーにひとりで参加していた。ホテルではもちろん一人である。
バスタブに浸って温まろうと蛇口をひねったら、茶色の水が!
「ぎょっ!」しばらく出していれば直るのかと思いきや、ずっと茶色の水が出っ放しだった・・・
そこへ、お湯(お茶用の魔法瓶)を片手にボーイさんがやってきた。
「ねえ、これ茶色すぎない?」と中国語が話せない私は、もろ日本語で話しかけた。
ボーイさんは黙って(通じたのか?)ドライバーをポケットから取り出し、ちょちょっといじったら、なんと直ってしまった。
恐るべし・・・
私はボーイさんに笑顔で応えたが、よく苦情が出るのだろうか、向こうは恥ずかしがっていたのが印象的だった。
私は茶色のお湯に浸るのもありかと思ったのだが(笑)

別のホテルのバスタブは水が溜まらなかった。これは茶色の水より深刻だ。
フロントに「見に来て欲しい」と電話した。この時もやっぱりドライバー1本で、ちょちょっといじったらあっさり直ってしまった。
ちょっとしたことなのだ。コツさえ掴めば私にでも・・・とまあ、当時はこんなささいな設備トラブルが絶えなかったものだ。
これも今や良き思い出となっている。


セロリ
3月一週間ほどの滞在中、毎食セロリが出てきた。旬なのだろう。
シンプルにゴマ油でいためて塩で味付けしただけだが、おいしかった。
日本では生でマヨネーズつけて食べていただけだが、帰ったら作ってみようと思った。さすがは中華四千年。


天安門広場、故宮
二日目、まずは北京のシンボル誰もが知る天安門広場へ。
広場から地下道を潜って天安門へ出る。この門に毛沢東の肖像画が掛けられている。
天安門の上に登ることもできる(有料、登門証明書付)ここ天安門の上で毛首相により、中華人民共和国の成立を宣言、
五星紅旗が初めて国旗としてあげられ、万民が天安門広場で聴衆となったのである。
であるから、上からは広場が一望できる。
もとは、明代(1420年)に建築されており、当時は3階建て木造、承天門とよばれて、故宮への表門だった。
当時、屋根を含めて35mもあり、北京市で一番高い建物だった。
城楼には、皇帝だけが出入りが許され、封建朝廷の詔書を宣布したところから皇帝の権力を象徴していたといえよう。
清代(1651年)に建て直されたのが、現在の建物で、この時天安門と改名されたのである。

この門を過ぎると午門が見えてくる。この門が現在の故宮への入り口だ。
あまり気がつかないのですが、故宮の中には川が流れています。
「金水河」といい、天の川をあらわしています。
「金水河」には5本の橋がかけられています。水源は「玉泉山」で、地下を通って紫禁城内に引き込まれています。
恐らくここの建設に使った膨大な量の大理石を運ぶのに使ったのでしょう。
だから、当然川も人工的に作ったと思われます。
川の水が凍結する時期に大理石を滑らせて運搬したのでしょう。

 故宮内の橋。この下に川が流れている


 故宮内の九龍壁


故宮の北に景山公園があります。小高い山なので、ここからは北京市内が一望できるそうです。
(私は行ったことがない)なにをかくそうこの山も人工山なのです。山を川を作ってしまうとは。

現代だからこうしてずかずかと故宮だなんてくまなく見てますけど、いうなれば皇帝の住まいですよね。
なーんか人ん家動き回ってるみたいで、私としては複雑な思いでした。
まあ豪邸拝見といった所でしょうか。
映画「ラストエンペラー」で皇帝溥儀が自転車に乗って通る赤い壁を通りかかったら、故宮で働いてる人だろうか、
自転車でやってきた。

 折りよくやってきた自転車・・・


南から北へ進んで、出口付近に博物院があります。台北の博物院に蒋介石が殆ど移されたことは
(2001年台北を参照してください)既にご存知でしょうが、北京にも文物がわずかに展示されております。


天壇公園
故宮から南に天壇があります。天壇は皇帝が1年の豊作を祈願した場所です。
南側の入り口から入ると、屋外に祈願祭壇があります。これがここの心臓ともいうべきメインステージです。
祭壇は、3段の層になっていて、1番上が神、いわゆる皇帝を表していて、その下2段目が、人民をあらわしていて、
一番下3段目が・・・皇帝、人民を支える3段目の表すものとは・・・それは・・・(ひっぱりすぎだっちゅうの)
・・・時間なのですよ。時間よ!
あたしゃあこれには鳥肌がたったね。時間よ!時間。さすが中華文明。
中華文明のひとつにがあげられると自分はかねがね思っていて、陰陽五行の相克の理念も
つまるところ暦の観念と考えています。
暦は、時間そのものですから、時間というものを自分たちにどう位置付けるか、という価値観が全てと考えていくと、
この天壇で古代中国の自然に対しての畏敬の念、厳しい自然環境を踏まえて生み出された暦であり、
哲学であったろうという思いを再認識したわけです。
いやはや全世界を支えるものが、時間であるとあっさり言ってのけた中国には言葉もなかった私です。
脱帽。感動。しばし呆然。

 これは祈年殿。屋外メインステージではありません。


天壇公園おまけ
どこに行っても観光地には‘日本語片言の物売り’がいます。
話せる日本語は、「シェン円、シェン円」「ヤスイネー」のみ。
そこに私たちが行く、とどうなるか。
バスから降りると待ち構えていて「シェン円、シェン円」攻撃が始まります。
入場門を入るまでが勝負なので向こうだって必死です。
売り物はさまざまで、タバコありスカーフありハンカチあり、観光地のパンフレットあり、おもちゃ、髪飾り・・・、なんでもござれ。
そして、ここ天壇では‘ガチョウの木彫り人形’(1個8センチくらいの)だったんです。
ここでのターゲットは、メガネに黒ショルダーたすきがけ60代後半のオジ様、に決まったらしい。
「五つシェン円」 「・・・・・」 「五つシェン円」 「・・・・・」 
「五つシェン円」とにかくはりついたら離れない。
「いらない!」 「八つシェン円」 「・・・・・」 「八つシェン円」 「・・・・・」 「十個シェン円」 「・・・・・」 「十個シェン円」
「いらない!」(おじさんは全く興味を示さない) ゴールの門まであと少しだ!
「十個シェン円」 「・・・・・」 「十五個シェン円」 「いらない!」(かなりめんどくさそう)
「二十個シェン円」 「いらない!」(お姉さんたちを追っ払う如く)
「二十五個シェン円」 「いらない!」(意志のかなり固いおじさん)
いったい何個までいくんだろう・・・
「三十個シェン円!」 あーオジさんゴール!
すごーい、5個から30個までになった・・・そして最後の捨て台詞・・・「ケチ!」
うわっ、そんな日本語も知ってるのね。
私はオジさんのすぐ後ろを歩いていたにもかかわらず、お金もってなさそうな私には目もくれないお姉さん方でした。
やっぱりプロです。見る目は確かです。いやあ、いい試合だった・・・



この日の午後、夜行寝台列車で洛陽に向かいました。
北京駅は、空港よりはるかに広く立派でありました。



1994年洛陽

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vol.18