ひとり 1994年 西安

第1回 1994年3月

洛陽〜西安

中国琴
私はこう見えても一応楽器の演奏が出来る。楽器といっても邦楽の筝と三弦である。
働き始めるようになって、ふと思えば中学卒業以来、音楽をしてないことに気づいた。
「なにか楽器ができたらいいなあ」と思うものの、今更ピアノは無理、ギターは中学のとき試みたが挫折した経験がある。
あとはなにがあるだろうか・・・と消去法で残ったのが和楽器である。
たまたま通勤途中に教室があったし。「これなら一生続けられる」という理由で決定。
楽器は持たずに(家に)教室に譜面と爪だけ持ってしばらく通っていた。
だんだん難しい曲になってくる・・・弾けなければ次の曲に進めない。
ある日師匠が私に言った。「家で練習してこなければいけませんよ」と。
「はっ?先生、私、楽器持ってないんです・・・」
聞くなり師匠の目が一瞬にして大きくなったと思ったら(スローモーションでそう見えた)
なんですって−!!
いまだかつてそんな人、入門したことがありません!」と。
前代未聞だったらしい。習い始める前に楽器を揃えるものなんだと。
「そうなんだ・・・知らなかった」と思うしかなかった。
こんな私も、そのあと中古の楽器を買って稽古を続けた。
今は教室を遠ざかっているが、こんな天然ボケの私を師匠は呆れながらも気にかけてくださっているようだ。
ありがたいことである。
演奏会の話まですると、終わらなくなるのでよそ事はここまでにして、本題に戻します。

ご存知でしたか?琴(こと)筝(そう)は違うものなんです。
はいわゆる「多くの絃を張った楽器」は「絃が13本の楽器」なのである。
日本の一帖琴は普通13本の絃なのでと呼ばれます。
合奏に17絃(低音用)も使います、現在ではこれも筝と呼んでいいでしょう。
同じように三絃にも種類があります。
津軽、長唄、地唄、蛇味線・・・どれも楽器が違ってきます。
私が持っているのは、地唄三味線です。(地唄は筝曲と組みあわさる)

ところで、西安のホテルで朝食をとりに行ったら、表にが置いてありました。絃を数えてみたら、
確か21本あったので琴と呼ぶと思います。


西安の空
西安は1年を通して晴れの日がほとんどないそうである。(ガイドの俊賢さんより)
砂漠が近いので黄砂が空を覆い、日が射さないのだそうだ。
でも、今日は晴れて日が射している。これってラッキーなの?


兵馬俑
ここは、あまりにも有名なので前書きは省くとして、1974年春、地元の人が井戸を掘っていてたまたま発見されました。
4つの坑に分かれていて、武士8000余、軍馬600余、戦車100余が眠っていた、秦の始皇帝陵の一部。

西安のメインイベント(勝手にそう思っていた)兵馬俑ドーム。体育館のような建物なのだ。
もう、ドキドキするよー。ここにあの兵馬俑がある。もうすぐこの眼で見れる。
ドキドキ・・・早くみたい。
ドキドキ ホールに入る うわードキドキ 扉を抜ける ドキドキ
人の頭しか見えない(体育館の2階ギャラリーにいるようなもの、兵馬俑は手すりの下)
もう、すぐそこを覗き込めばある ドキドキ 視界が開けて兵馬俑が現れた

「・・・・・・!!!・・・・・」もう言葉もでない。

想像以上の迫力。凄すぎる・・・
この感動は一生忘れないだろう。地下大軍団、これが始皇帝陵の一部(入り口付近)だというのだから凄い。
ハー凄い・・・凄い・・・凄すぎる・・・・・

構内は撮影禁止です、中に専門の写真屋さんがいます。
そこで記念に撮りたかったけどまたもガマンしました。
この年は、2号坑までの公開で、3号坑は発掘中でした。
それにしても初めに目に入った瞬間の感動は忘れられません。


秦の始皇帝陵
始皇帝が13歳で即位してすぐ着工したが、完成まで36年かかり、彼は生前完成を見ることはできなかった。
西安市から西へ35km麓(馬辺が付く)山のふもとにある。
兵馬俑坑は陵墓の東1.2kmのところにあって、兵馬俑坑を含んで始皇帝陵なのだから規模が知れるというもの。
陵墓の発掘はまだ手付かずの状態だった。
なだらかな裾野をもった山が陵墓だとバスを止めて遠目に見学した。
「発掘するときは呼んでね」と言っておいた、なにが出るか今から楽しみである。
その後の情報では、内部は水銀の海という説が。充分ありうる話だと思っている。




華清池
唐の楊貴妃の保養地である。彼女はその美貌に似合わずワキガだったといううわさがある。
足も纏足によって臭かったろう。華清池はお風呂です、池は中国語でお風呂を意味します。
だんな様の玄宗皇帝とラブラブお風呂だったのでしょうか。


鐘楼
西安市の中心に当時時間を知らせた鐘楼がある。
街の交差点の中にあるものだから、渡るのに骨が折れる。横断歩道もなければ、もちろん信号機もない。
命がけで渡るしかない、車は猛スピードでやってくるのだ。
轢かれた方が悪いのだ。「あっぶないところだなあ」という印象しか残ってません・・・

 鐘楼の上部建物部分


大雁塔(だいがんとう)
ここはなしには語れない。頭の下がる涙、涙の話である。
玄奘法師がここ西安(シルクロードの出発点)からインドに出発したことは、孫悟空の西遊記でもおなじみですよね。

玄奘法師は、洛陽で出家して、629年インドに出発した。(パンフレット中国語版による)
厳しい砂漠を旅して、やっとの思いで経典を当時の都、長安(現西安)に持ち帰るまで17年間かかった。
(もう、これだけでも頭が下がる)
孫悟空のようなお供は実際にはいない、たった一人で旅をしたのです。(ずんずん頭が下がる)

帰ると、唐の皇帝は玄奘を讃えてご褒美に大雁塔を建ててくれた。
が、玄奘が大雁塔に住まうのではない。塔はあくまで持ち帰った経典の住まいである。
では、玄奘はというと、彼は休むまもなく経典の中国語翻訳にとりかかった。
この翻訳作業をした場所が、大雁塔のすぐ前にある。
大雁塔は7層建て、玄奘の作業場は2階建て、2階を見ることはできなかったが、
「ここの上で30数年にわたって翻訳を続けていたんだあ(頭が下がりっぱなし)」
私も、ひとりでこもりっきりの仕事をしているが、彼のような大事業とは似ても似つかない。
共感できるのは、孤独であったろうということだけです。

彼が、経典を背負っている絵があります。重かっただろうなあ、歩きだもの。
背負子の前に行灯がついているものの、夜道は危険がいっぱい!
それこそ、トラ、狼、に襲われることもあったでしょうに、「もう、帰りたい−」
「でも、中途半端で引き返せない−」と泣き言があったかどうか・・・
それにしても結果、行って来たのですから頭が地面にめり込むほど下がります。
とても、生半可な意思では達成できないでしょう。
強靭な精神力を持っていた人に違いないと思います。しかも、その後がすごいっすよね。
30数年翻訳活動よ!。何でも自分で携わらないと気がすまない完璧主義の性分だったのかしら?
もう、終わったときは、彼の人生も終わりでしょう?。彼はそれで満足したの?
そりゃあ、そこは私なんかと違って、それが自分の使命と信じて疑わないのでしょうから、不満も満足もないのでしょうけど・・・
私なんか、その使命とやらが皆目見当もつかないままですが。

大雁塔には登ぼることができます(私は行ってない)頂上からは、視界がよければ遠くに砂漠が見えるそうです。
砂漠を越えてインドに歩きで行こうなんて、もしかして自殺行為なんじゃないの?
彼をインドへ突き動かしたのはいったいなんだったんだろう・・・。


西安ガイド、俊賢さんのこと
彼は、勝気そうな顔をしたハキハキ物申す人でした。
北京で印鑑を注文したマダムは(1994年北京参照)明日、北京に戻って受け取れるかどうか、
よほど心配だったらしく、このことを北京に確認して欲しいと俊賢さんに詰め寄っていた。
皆が大雁塔に登っている間、私と俊賢さんは、下でお茶飲みながら待っていたが
彼はマダムに言われていたことを確認するため、北京に電話をしはじめた。
「JfkふぉrJfMsjs、gshJsjf。wkJdkfんsm祖rsfMsh596lfmh¥cmcsprt@・・・」
別人のようにいきなり大声になったのでビックリしたし、すごく怒っているようである。
(印鑑が)出来てなくて怒っているのでしょうか?何を言っているか分らない私には
‘良くない事態’だということしかわからない。

この旅行に来て、私は言葉が分らないことの不安を少なからず感じていた。
簡単な買い物ひとつでも、何か不都合があるのか相手の顔の表情が不機嫌になられると、こっちはやはり気になるものです。
もともとそういう顔なのかも知れないが。
とにかく些細なことにも顔色を伺うようになってしまう、だってそれしか相手を知る術がないのですから・・・。
そこで、中国語の勉強を始めようと必要を強く感じたのです。

「次回来るときはひそかに聞き取って、不意に中国語を話して中国の人を
ビックリさせてやるぞー!」という
不純な動機で私の中国語の勉強が始まったのでした。
今となっては決定打を打ってくれた彼に感謝。


餃子づくし
西安は私も知らなかったが餃子発祥の地らしい。
西安最後の夕飯は餃子づくしである。ご夫婦で参加された、だんな様の方がノーベル賞作家川端康成にそっくりだった。
なので、私は勝手に川端先生と呼んでいた。
(その川端先生は、高校の物理の先生でした)食事はいつも円卓である。
その時、私の両隣は川端先生と、ピータン奥さん(1994年洛陽参照)だった。
肉食を断った私は餃子に手をつけず青物ばかり口に運んでいたら、まずはピータン奥さんが私の皿に餃子を取ってくれた
「美味しいわよ」と。
私「肉は、食べないんです」奥さん「これには肉が入ってないわよ、豆腐よ」
じゃあ、ということで、パクッとひとくち。うそばっかりー肉やん
お次は川端先生が皿に餃子を取ってやさしく曰く「これは、肉じゃないよ食べてごらん」
いつも冷静で穏やかな先生の言うことにはうそはないだろうとパクッとひとくち。
うそばっかりー肉やん
そんなこんなで結局楽しく、全種類の餃子を食べつくした私でした。
肉が食べられない、のではなく「食べないことにした」なので、美味しくいただきました。
皆さんのお気遣いに感謝。楽しい夕食になりました。西安の思い出のひとつです。

 川端先生。西安餃子づくしの食卓で。


牡丹
楊貴妃を偲ぶ古都長安は牡丹でも有名です。北京まで国内線飛行機で戻ります。
空港には牡丹柄のスカーフがありました。チラッと見ただけでしたが大胆な図柄が見事でした。
時間があったら母に買っていきたかったです。というわけで、最後までガマンの西安でした。

「北京の長城を見ずして中国に行ったことにはならない」といいますが、
「西安の兵馬俑を見ずして・・・」と言ってもいいくらいの遺跡でした。



1994年西安完



1994年北京最終回


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vol.20