太極拳in香港(4)

1998年9月30日(水)


香港最後の朝
ついに香港最後の朝となった。練習できる時間も1時間しかない。
まだ暗い公園までの通いなれた道を歩きながら、香港の美味しい店、危険地帯、
地元の人のお墓に至るまでと「日本の家の近所より香港の街の方が詳しいかも・・・」と思う私。
だって私は家の近所のことをほとんど知らないし、知り合いや友人もほとんどいないときてるのだから・・・。

早朝の香港は昼間の喧騒もひっそりと鳴りを潜め、昨晩のゴミを掃除する人たちが働いてる。
でなかったらBARから朝まで飲んでいた人が出てきたりするくらい。
まだ、眠ってる、といった感じである・・・。
これから、活気ある香港が起きはじめるというわけだ。ここは香港。世界の貿易都市。
だけど、そんな気がしない。長年住んでいるかのような馴染みよう・・・

 早朝のサムチャアチョイ


 中央分離帯には太極拳教室の宣伝幕もある


最後の修業
そんなことを考えながら公園到着。まっ先に「私は今日、日本に帰ります」と伝える。
師父は既にわかっているから、と黙って頷いただけだった。

1回目は、「メモを取りたいので見学させてください」と見せてもらった。
もう時間が迫っている。2度目は、「(あなたを)見るから」と、総点検してくださった。
これが昨年や今回の初日だったら、とても無理な話しであったが、知らず知らずのうちに進歩していたのだ。
私は動揺することもなく冷静だった。素直に見てもらえるようにまでなったのだ。
相変わらず、「肘底垂」と「四斜角」はうまくいかなかったが、最後の最後で「肘底垂」ができるようになったのだ・・・
嬉しかった(涙)
収まるところへ収まった感覚は師父にも伝わったのだろう、すかさず「ホウ」の声がかかった。
でも、「四斜角」は最後までできなかった。どうもいまいち、完成とまではいかなかった。
悔しい、時間が欲しかった。

師父は私がどんなにつまづいても、「ホウ、ホウ」とひとつ動作終わるごとに言い続けた。
師父はいつでもそうだった。こんな出来の悪い私にも辛抱強く教えてくれ、決して怒ることはない。
朝食で見せる‘せっかち’の一面もない。
太極拳をしている時の師父は、穏やかな微笑を絶やさず、「ホウ」を繰り返し言いつづける・・・。
やっぱり、強い人間は優しいは本当だった。

 98年師父 御年78歳


師父との別れ
「もう行かなければなりません」
昨日の夜書いておいた、お礼の手紙と一緒に昨日預かった100HK$を入れた封筒を渡した。
(赤い封筒だけはいただいた)
これも、警戒して受け取ってもらえそうになかったので、「手紙だから」と置いてきた。

別にこれといって言葉を交わすでもなく別れはあっけなく、拍子抜けしたものだった。
私も私で、振り返るでもなく、握手するでもなく、奥さんもいなくてあっさりしたものだった。
とにかく健康でいて欲しいと願うばかり、そしてまた会えることを希望してます。
「我一定再来香港」
生きていればまた会える、縁があればなおさらだ。是不是?そうでしょう?

空港で
延泊したので、空港ではひとりだった。
空港で時間もたっぷりあって、ひとりボーっとしながら今回の香港のことを思い返していた。

私など家と仕事の往復だけで、今やほとんど家の中で仕事をしているので出会いなどない、と日頃思っているが、
師父にとっても何十年も繰り返してきた毎朝の太極拳で、まさか‘日本人’と一緒にすることになろうとは
思いもよらなかったろう。しかもご飯まで一緒に食べることになろうとは想像もしていなかったに違いない。
縁はどこにあるか分からないものである。
私だって飛び入りで弟子入りした師父と朝ごはん食べて、このあと手紙を送る仲になろうとは思いもしなかった・・・
幸運にも達人と出逢えて、1950年の楊式が師父を通して海を隔てた私に伝わる・・・。
それは私にも1950年の人になれるという事。本当に不思議、真奇怪!




言葉って・・・
今、私は北京語ができて本当によかったと思っています。
これからは本腰いれて広東語勉強しようか・・・
言葉は気持ちを伝えるための道具。だから気持ちありき。私のように拙いと、気持ちを伝えるのに苦労する。
お互い一生懸命にもなる・・・。そこから人間関係が築けるんじゃないの?
日本語は自由に使えすぎて、言葉だけがひとり歩きしていて本当に言いたいことが見えなくなっていることがある。軽い。

師父とは、必要なことしか伝え合ってないけど、だからこそお互いの奥を見よう見ようと、心が盛んに動いた。
多くは語らなかったが、話した以上の多くのことを理解し合えたように思う。
目や顔の表情でも伝わるし、むしろこっちの方がよほど気持ちが伝わる時もある。
・・・最後は真心があるかないか。
そりゃ、言葉が流暢に話せれば便利だし、表情だけでは伝わらない意思も伝えられるのですが・・・。

言葉は心を表すものでなければならないし、最後は言葉ではなく心に還るのだと信じています。

お礼の手紙と返事  
帰ってきて早速お礼の手紙を書いた。
太極拳を教えてくれて、その上、毎朝ご飯までごちそうになってしまった。
何から何まで好くして下さってありがとう、と。
あなたの太極拳は素晴らしい、私はまた香港に行って太極拳を習いたい、とも・・・。

返事がきた。嬉しかった。これらの手紙は私の宝物です。
まず、日本に無事着いてよかった、ということ。
お土産のお礼の言葉、とても喜んでいるがこんな気を使う必要はない、ということ。
私のつたない中国語をほめてくれ、おまけに字も上手だとほめてくれた。
あなたがまた香港に来ることを歓迎する、ということ・・・。
そして、「自分の太極拳はひとに比べて劣っている、とてもあなたに教えられるものではない。
だが、あなたにが望むなら私は喜んであなたに私の楊式を教えたい。」と。
自分の体得したものを他人にやすやすと教えたくないという人がいるものです。
そんな中このように言ってもらえたので、「これで安心して行ける」と思いました。
涙してしまいました(泣)
最後は、77歳の師父が私の健康を祈ってくれて締めくくられていた・・・(笑)

師父の太極拳は他人に教えるものではなく、あくまで自身の健康のためにしているものです。
このことは師父自身が言ってることでもあり、「毎日の積み重ねがあって初めて健康になれるのだ」と。
「だから、あなたも毎日おやんなさい」と、私は厳しく言われた。
なんてったって、私は師父にとって‘胃弱’なのですから・・・。
そんなわけで、師父には太極拳をしていることに対して、驕りも気負いもありません。
私が惹かれるのはそこなんだと思います。師父にとって太極拳は、そう大層なことではないのです。

私が日本で太極拳を始めたばかりの頃、教えてくださった先生が私に言いました。
「あなたの動きには癖がない」と。私は今でもこの言葉が忘れられずにおりまして、
「5年経った今は癖がでてきちゃったろうか・・・なければいいんだが・・・」とつい考えてしまいます。


話しを香港に戻して・・・
師父とはその後も手紙のやりとりがあり、最近、剣をはじめたとのこと。
もちろん、1950年当時に習ったものでしょう。
仕事を退職して朝の時間に余裕が出来たので、拳の前に剣をしてるのだそうだ。
それなら私も始めねば、と独学で楊式剣の予習をした。次回の香港行きに向けて楽しみは膨らむ。
それに、なんだか師父に手をひかれるように私の太極拳の世界も広がっていけるみたいで。

後日、師父のことでもうひとつわかったことがあった。
娘さんが仕事でニューヨークに住んでおられるそうで、今度アメリカに行くのだそうだ。
1ヶ月ほど滞在して戻られてから手紙をもらった。
ニューヨークの案内はお孫さんがしてくれたそうで、楽しんでこられたようだった。
こういうことを聞くと、さすが香港人は英語を武器に世界に羽ばたいているなあ・・・という気がした私であった。

ともかく、次回行く時はアポイントがとれるのでよかった、と安心した次第である。
修業はまだまだ終わらない・・・


 1998年太極拳in香港完


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