1997年 北京

第2回 1997年9月18日


成田空港〜北京空港

自宅発着添乗員
私は2度目の中国である。中国語だって3年半も勉強していた。した?したはず・・・。
だから添乗員が同行しなくても大丈夫!

前回と同じようなコースを選んだのには訳があります。なぜなら今回は母といっしょなのです。
是非北京の万里の長城と西安の兵馬俑を見てもらいたかったのです。

国内旅行は母と一緒にあちこち行っているし、父とふたりでも旅行している。
だけど、海外旅行には行ったことがない。今回が初めてである。
添乗員がいないコースではあるが、私が母の添乗員になれればと思う。しかも、自宅発着よ・・・。

私がひとりで中国に行くと言えば‘今生の別れ’の如く反対した母である。
いくら私が2度目といっても「添乗員なしの旅行で本当に大丈夫なの?」と心配は尽きない。
挙句には「・・・どうしても行かなきゃならないの?」とまで言いだす始末・・・。
私はどこに行ってもマイペースだから、母は私に置いてきぼりにされるとでも思っていたのかも。
・・・というわけで、こちらの心知ってか知らずか、母の不安はいっこうにおさまらないのでした。

これでも添乗員tuziは、自分の事をそっちのけで母のため慎重にコース選びをしていました。
まず、万里(北京)と兵馬俑(西安)が入っていて、寝台車はキツイから毎晩ホテルに泊まれて、
あわよくば私が行ってない所も含まれて・・・。一番気をつかったのは季節でした。
‘金の秋’
五行説では秋は金を示し、事実中国では一年の中で秋が一番すごしやすく、風景も美しい。

パスポートの手配も全部私が引き受けた。出入国カードもふたり分書いて。
荷物も私がふたり分を持って。買い物も値切りの交渉から支払いまで私が・・・。
今回の旅行の主役はあくまで母で、私は添乗員、側女、ポーター、カメラマン、パシリに徹します。
そんな私でも楽しみにしている場所があります。それは初めて行く‘開封’です。


木村さん登場の巻
母は私が海外旅行に行くとなるときまって‘おにぎり’をたくさん持たせます。
「いらない」といくらがんばっても無駄です。儀式のように持たされることになります。
私はそのおにぎりを翌朝も食べるハメになるのですが・・・。
飛行機のチェックインも済ませ、母と昼食のおにぎりを食べながら「あの人も中国かしら?」
「違うんじゃない?」「あの人は?」「うーん、わかんな〜い」「あの人たちそうじゃない?」
「もう、いいじゃないの。向こう着いたら分る事なんだから」という会話をしていたら、
そんなやりとりが聞こえたものか、側にいた女の人が話しかけてきた。
「あのー、わたしもそのツアーなんです。よろしくお願いします」と。
ひとりで参加される木村さんの登場である。
木村さんはこの時から、なぜかうちの母になついてしまって、この旅行中、
片時も母から離れることはなかったのである。どっちが娘かわかりゃしない。
(母と私は顔が全く似てないので、娘ではなく嫁に間違われるほどだ)
木村さんも中国は初めてということだったので、「ひとりで心細かったのよ」(母談)
だからって、なんでうちの母なのかが分からない・・・。成田から我々3人の旅行が始まった。

まず、出国審査。
母のパスポートも私が預かろうとしたが「自分で持つ」と拒否されていた。
添乗員tuziは、「ハイッ、パスポートだしてっ!」と、航空券とカードを挟んであげる。
上げ膳据え膳である。審査で何かあるといけないから、先に行かせて・・・と余念が無い。
母の後には木村さんがつづく・・・万事こんな調子であった(笑)


恐るべし、イラン航空
予定時間になっても私たちはロビーで待たされていた。
機体の保守点検に時間がかかっているという。
今回のイラン航空は、‘成田発北京経由カラチ’である。
今点検している機体は、カラチから北京経由で飛んできた飛行機である。問題発生か?
どんなに時間がかかってもかまわない、しっかり安全を確認してから乗せて欲しい、と
私は思っていた・・・が、母は初めてのジャンボである。
「落ちたらどうする?」「途中で止まったらどうする?」と恐怖でいっぱいになっていた。無理もない。

私は飛行場の雰囲気も飛行機に乗ることも好きである。離陸時の重力感がたまらない。
乗ってしまったら以上、自力ではどうすることもできない。
「運に任せるしかない」と覚悟を決めている。

ロビーには、イランに帰る人、北京に帰る人がほとんどで、日本人の姿はあまりない。
2時間ほど待たされて、日本人客だけが‘いったいどうなってんだ?’と落ち着きがなくなっている。
こういう時にお国柄がうかがえるもので、中国人や特にイランの人はさすが平然としたものである。
もって生まれた「体内時計」が違うのだろう。

3時間経過。ついに日本人客が係りの人に詰め寄る事態に。
結果、食事(軽食)を成田空港内で出してくれることになった。イラン航空側から場所は指定された。
「長くなりそうだから」と指定された喫茶室に向かうことに。
その喫茶室まではバスに乗らないと行けないほど遠かった。もちろん木村さんも一緒です。
3人で軽く食事を取って戻ると、客入れが始まっていた。約5時間の遅れの搭乗である。
定刻の出発なら、もうとっくに北京に着いてる時間である。
どうせ今日は北京に着いてもホテルに向かうだけである。無事に着いてさえくれれば、それでいい。


北京空港
空はとっくに暮れている。94年に見た「赤い大地」を母に見せることはできなかった。残念。

大幅に遅れての到着。現地ガイドさんが迎えてくれた。
明朝、さっそく北京を発って開封に向かう。楽しみ♪


翌朝、空路開封へ発つ。


1997年 開封


目次


北京に再度戻るのは6日後である、北京最終回へつづく。





vol.22