3.歴史(東部)


<殺戮による武力征服>
アメリカ・インディアン側からみる歴史と白人側からみる歴史では視点が違ってきます。
実はインディアンと白人が初めてであったのは、1000年頃のバイキングでした。
この時、インディアンは布をまとい髭を生やして銃を持った白人を「鉄の人間」と呼んだ。
自分たちインディアンより生活文明が進んでいる白人を、好奇心と怖れを持って見ていたのです・・・。
そこには白人に対する畏敬の念があった。

ある日、ヨーロッパから毛皮商人たちがやってきた。
それに続いて移民の群れ、宣教師たち、兵士の一団がやってきた。
17世紀に入ると、彼らはアメリカの大地を自分たちのものにしたいと思い始めた・・・。
インディアンたちは白人の考えが理解できなかった。

また、部族ごとの歴史があります。
東部から白人の波が押し寄せ血の海は時間を追うごと激しくなり、西部を襲った。
東部部族の追放の歴史、西部部族の戦闘の歴史・・・。


「赤い人」と「鉄の人」(スペイン人〜イギリス人〜オランダ人の入植)
1492年 コロンブスアメリカ大陸発見
サンサルバドル島に漂着。そこにはタイノー族が住んでいた。
自分たちを征服するとは夢にも思わないインディアンたちの苦難の殺戮の歴史が始まる。
べオテューク族、ミクマク族、マレシット族はヨーロッパ人(主にフランス人)とナイフなどの金属や布と交換に、
かわうそやビーバーの皮を渡した。特にビーバーの皮は本国で高値で売れた。
その頃、毛皮からできるフェルトの帽子が、フランスで大ブームを巻き起こしていたからである。
北アメリカはヨーロッパの「毛皮の倉庫」と化した。

1539年 スペイン人が持ち込んだ「天然痘」猛威
フロリダに上陸したスペイン人数百人は3年間、南東部をさまよい歩き、天然痘を新大陸に持ち込んだ。
北東海岸でも猛威をふるい、そのためインディアンはやむなく自分たちの土地を捨てなければならなかった。

1607年 イギリス人入植者105人ジェイムズ・タウン上陸ヴァージニア植民地建設
初めて入植したのはイギリス人だった。そこにはポーハタン族が住んでいた。
その後ヨーロッパから大挙して押しかけ、インディアンを西へ西へと追いやった。
西部に住むインディアンにもこの情報は伝わり、戦いの前の恐怖はまもなく現実となる。

1608年 フランシスコ会修道士ケベックに上陸
インディアンをキリスト教に入信させて、その精神から従順に変えようと試みた。
インディアンは元々白人と比較にならないほど、ピュアな精神の持ち主である。
信仰は自然崇拝者である。白人の一方的な傲慢さがこのひとつでも見て取れる。

1609年 オランダ入植者、植民地建設
数歩歩けば白人に行き当たるほどになり、土地を追われたインディアンが移住する土地は劣悪な環境だった。
気候も変わり、慣れない場所での生活は辛い。
移動中に病で倒れる者、水が合わなく滅んでゆく部族・・・。
東海岸に住んでいた大方の部族は、戦わずして早い時期に絶滅してしまった。

1612年 イギリス入植者、部族連合ポーハタン族の村を襲い食料略奪
白人はインディアンに教えてもらいながら、作物を栽培していた。
しかし、収穫が思うようでないと、銃を振りかざしインディアンの村を襲った。
イギリス人が入植したジェームズタウンのあるヴァージニアにはポーハタン族が住んでいた。
ポーハタン族は平和裡に互いに尊重しながら平等な立場で生活することを望んでいた。
しかし、彼らの望みは白人の前には空しかった・・・。

1620年 メイフラワー号清教徒、プリマス上陸
イギリス人がやってきた。そこにはワンパノーグ族が住んでいた。
新しくやってきた白人は、毛皮商人たちとは違って、新大陸に住み、自分たちが土地の所有者となることを望んだ。
白人(清教徒たちは)自分たちこそが新大陸を開拓する使命を持った、いわば神に選ばれた民と信じていたのだ。
そんな白人からはインディアンは結局のところ「残忍な野蛮人であり、未開人、サタンの息子」に映ったのである。
このような軽蔑はやがて敵意へと変わっていく。

1622年 ポーハタン族、ヴァージニア植民地を襲撃
インディアンたちはよそから来たものたちを、好奇心とともに暖かくむかえた。
彼らは白人を神秘的な力を持つ者と考えていたので、恐れと同時に尊敬の念が入り混じっていた。
初めは、白人はインディアンにとって素晴らしい人間に見えた。
しかし、そのうち理解できない存在となっていく・・・。
この年のインディアンの襲撃は1612年の報復であるが、白人はそんなことは既に頭にない。
この時以来白人はインディアンを殺すためには手段を選ばなくなった。
交渉のための死者さえ毒殺され、女子供までが皆殺しされた。

1630年 毛皮の交易をめぐる部族間の争いにヨーロッパの利害が絡まり「イロコイ戦争」に発展
ヴァージニア同様、ニューイングランドでも血しぶきが上がりはじめた。

1637年 ピクォート族の戦い。ピクォート族の大集落が崩壊
ひとりのイギリス人が殺されたことを発端に、殺した犯人を引き渡さないということを理由にピクォート族は
容赦ない攻撃の犠牲になった。犯人はインディアンではなく白人だった。
数年後、ナラガンセット族は彼らの領土がチャールズ1世の統治下にあることを認めなかったため同じように
皆殺しにあった。
さらに、ワンパナグ族も土地の不当な譲渡を強いられた。白人の横暴さは止まることを知らない。

銃と弾薬は東からやってきた
1646年 ポーハタン族、領土の一部割譲を認める条約に署名
1612年以来のイギリスとの戦いは白人たちの武器にくじけ、ついに署名に追い込まれた。
ヴァージニア、ニューイングランドに住むインディアンは、イギリス人のことを他の地に住むインディアンにこう説いた。
「白人は誰にも知られることのなかったこの大陸にやってきて、森を切り倒し、猟場を荒らし、先祖の墓を遠ざけた。
そして、妻や子供たちを奴隷にした」

1657年−1667年 第4次イロコイ戦争。イロコイ族、フランスとの平和条約に署名
イロコイ戦争はオランダとフランスの利害戦争である。
オランダ側のイロコイ族とフランス側についたヒューロン族、そこにインディアン部族で敵対していたモヒカン族が
絡んでの戦争だった。
1630年頃から始まった、毛皮をめぐっての同胞同士の終わりなき戦いは、
全部族丸ごと白人に抹殺されることで決着がついた・・・
はじめから白人はインディアンを巻き添えにし、利用するだけ利用したら抹殺する作戦でいたのだ。

1675年−1676年 ニュー・イングランドにおけるフィリップ王戦争
アルゴンキン族の酋長メタカムを白人はフィリップ王とあだ名した。
100人の兵士とともに立ち上がったが、600人の白人と、4000人以上のインディアンが死んだ。

涙の旅路(フランス人〜アイルランド人、スコットランド人、ドイツ人の入植)
1756年 7年戦争。イギリスとフランスの争いに同盟諸部族が参加
東部のインディアンを全部族巻き込んでの全面戦争となる。東部全域が血に染まった。
やがてケベックが陥落、モンカルムが敗退し、イギリスの領土となる。

1763年 ポンティアクの戦い。
      イギリス国王が宣言を発し、西部の地がインディアンのものだと宣言される
この年は重要な年である。
「パリ講和条約」により、ミシシッピ川を境に東がイギリスの領土と取り決められた。
これで、西はインディアンの土地として残されることが約束された。
白人はまだ西部に価値を見出さなかったからだった。

1775年−1783年 アメリカ独立戦争。パリ条約によって、アメリカ合衆国が承認される。
まだフランスはインディアンを味方に引き入れ、小競り合いを続けていた。
フランスがイギリスに敗北すると、その部族は弾圧を受け消えていった。
勝利したイギリスについていたとしても、無視されアメリカ大陸全土の主権を要求してきた。

1794年 フォールン・ティンバースの戦い。
       インディアン北西諸部族連合が、ウエイン将軍率いる合衆国軍に敗れる。
植民者たちは、自分の隣に住むインディアンの事などお構いなしに、次から次へと貪欲に開拓していった。
もはや、森の木を切ることも木切れを拾うこともできなくなったインディアンたちは、
伝統への回帰と民族の団結を目指して、抵抗運動を組織した。

1811年 ティぺカヌーの戦い。
ショー二ー族族長テクムセがリーダーとなり「我々が今、団結して共通の敵に立ち向かわねば民族の滅亡は近い」と
説いて回った。

1812年 イギリスとアメリカ軍の戦い。
        イギリスに見捨てられたテクムセ、ティムズ川の戦いで死す。
同盟したイギリスに裏切られテクムセ死す。
これで、東部の抵抗運動は終わりを告げ、東部のインディアンは西部へ移住した。

1824年 合衆国陸軍省にインディアン局創設
チェロキー族、チョクトー族、クリーク族は東部に残り、ヨーロッパ化を受け入れ、キリスト教徒になり、
子供たちを学校に通わせ、畑を耕し「文明化した部族」となった。
にもかかわらず、チェロキー族の土地で金が発見されると、白人はまた追い出しにかかった。

1827年 チェロキー族が独自の憲法を制定。合衆国最高裁判所はこれを否定。
不当な追放を避けるために、チェロキー族は合衆国裁判所に訴えた。
が、独立国家としては認めないという判決がおりる。
上から物言う白人と、一縷の望みを裁判に持っていたインディアンの悲劇であろう。
「平等」という概念が白人側には、はなからなかったのだから・・・。

1830年 ジャクソン大統領「インディアン強制移住法」議会で成立。
東部に残ることを希望した部族も、アンドリュー・ジャクソン大統領になると、移住を余儀なくされた。

1838年 チェロキー族、「涙の旅路」の途につく。
1827年の判決をうけ、アメリカ南東部に住んでいたチョクトー、チェロキー、クリーク、チカソー族などの諸部族は、
ミシシッピ川を横切り、オクラホマへと強制移住させられ、その途上で多くの命が失われた。
これを「涙の旅路」と呼ぶ。
到着してみるとそこにはすでに、東部を追われた10以上もの部族がいた。
気候が変わり、弱り果てるものが後を絶たず、また劣悪な生活環境(特に水)に適応できない部族は
瀕死の状態で暮らすことになった・・・。

このあと悲劇と殺戮の舞台は西部に移ります。
全滅するまで終わりの見えないインディアンの歴史です。



4.歴史(西部)




※このページの内容に一部書籍からの引用があります。
それらの資料は「11.書籍」にて紹介させていただいてます。
他サイトからの転写はありません。




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