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4.歴史(西部)


<殺戮による武力征服>
19世紀に入るとアメリカ政府は自分たちが東部から追いやったに西部での平和な生活と、
土地を保証する一方、新たにやってきた入植者には、西部の奥深く分け入り、
そこに住み着くことを奨励した。(二枚舌)
というのも、東部は既にヨーロッパからの入植者で溢れていたのだ。
1840年から1860年にかけてアメリカ合衆国に移民する人口は400万人を超えた。
もちろん、カルフォルニアやコロラドの金の発見が、人口の膨張と無縁ではない。

東部から白人の波が押し寄せ血の海は、時間を追うごと激しくなり、西部を襲います。
東部部族の追放の歴史、西部部族の戦闘の歴史・・・。


西部の征服
1845年 合衆国テキサスを併合。2万5000人のインディアンを州政府の統治下に置く。
1万5000人を占めるコマンチ族は合衆国に統合されることを拒否した。
こうして、その後の10年間、コマンチ族とアパッチ族はゲリラ戦を展開し、
彼らの土地が入植者の手にわたることを阻止した。

1849年 インディアン局が内務省の直轄下になる。
ミズーリの新聞には西部開拓の広告が数年間にわたって載り続けた。
広告を見て集まった入植者は1843年に1000人、1844年に4000人、1845年には5000人・・・
1869年大陸横断鉄道開通までに数十万の人がオレゴン街道をひたすら西に走った。
その間、白人は自然を変え、バッファローを楽しみのために狩っていった。
生活の糧を失う、尊厳を損なわれる事態をついに黙ってみているわけにはいかなくなった。
友好的だったインディアンはついに戦う方向に向かって行った。

1851年 合衆国と有力部族との「ララミー条約」
西部に向う入植者を襲うインディアンに手をやいた政府は、多額の金を渡すことで
西部へ向う輸送路の安全を約束させた。スー、シャイアン、アラパホの部族が集まり、
平和条約に調印した。

文字を持たないインディアン側は、その意味も良くわからないまま自らの運命を何がなにやら摩訶不思議な
記号の文書に委ねたのだった。
多くの条約の署名は、文字を知らない族長たちの手にペンを握らせ、
子供に字を教えるように掴んで署名させるという形をとった。
場合によってはただ「×」とばってんをつけるだけでよかった。
西欧社会が生んだ法律というのは、専門用語を魔法のように操って曖昧にし、相手をたぶらかす・・・
結局、人間不信の文化である。

1860年−1875年 乱獲によるバッファローの激減
平和条約で得たお金で食料を買って食べるしかなかったインディアンだが、
白人は売ることを拒否した。ミネソタのスー族の飢餓は深刻で、
10年の間積もり積もった怨恨が爆発寸前だった。

1862年 ミネソタ、サンティー・スー族戦争
リトル・クロウ率いるサンティー・スー族が白人の耕作地、商人の詰め所、砦などを襲撃。
数週間のうちに700人の白人が殺され、住民たちは家や、収穫を捨てて逃げ出した。
州政府は中央政府に軍の出動を要請。これ以降「野獣と同様」のインディアン狩りが始まった。

1862年−1872年 南西部でアパッチ族のゲリラ活動活発化
隣のナヴァホ族と同様保留地に入ることを拒否したアパッチ族の誉れ高い族長たちは
(マンガス、コロラド、コーチーズ、ジェロニモ)は、クルック将軍の軍勢に対し、
厳しい態度で臨んでいた。
対立と敵意の10年が過ぎ、白人に対し譲歩を余儀なくされた時、コーチーズは言った。
「かつて、アパッチ族は偉大な国家だった。今はもうわずかな人数になってしまったが、
誇りを失ったまま生きのびるくらいなら、アパッチ族は死を選ぶだろう」

1864年 サンド・クリークでシャイアン族虐殺される
コロラドでの白人によるインディアン大虐殺。
数百人の兵隊が突然シャイアン族のキャンプを攻撃したのだ。
1860年から1870年にかけて同じような事件が各地で繰り返し起こった。
(1868年11月「ワシタの虐殺」など)指揮にあたったチビングトン大佐は「殺せ、
どいつもこいつも頭の皮を剥げ。
大きいやつも小さいやつもだ。シラミの幼虫はシラミになるからな」と命令したという。

平原インディアンの最後
1876年 リトル・ビッグホーンの戦い。
      スー、シャイアン族がカスター将軍率いる第7騎兵隊を全滅させる
1868年春の条約で、ブラックヒルズとプラット川の統治権はスー族のものと取り決められていた。
この条約は、大陸横断鉄道の阻止の闘いでレッド・クラウドが勝ち得たものだったが、
インディアンを保留地に住まわせる条文が規定されていた。条約の調印時は通訳を介するので、
こういったすり替えが白人側で一方的に行われていたのだ。
金鉱が見つかると、条約を反古、無視、手前勝手に解釈し、スー族の土地に殺到した。
クレイジー・ホースとシッティング・ブルのスー族とシャイアン族が結集し勝利した。

いつだって、どの戦いだって、始まりは白人の身勝手から始まっている。
条約も反古にする身勝手さは、インディアンにとっては嘘としか映らない。
信用できない白人と戦って勝てるものではない。しかし、闘うしかないのだ。
ここまでくると、コロンブスからインディアンの運命は決まっていたようにも思える。
しかも、相手が最悪だった、と・・・。

狭い谷間にクレイジー・ホースの有名な戦闘号令が何度もこだました。
「ダコタの勇者よついて来い、冥土の旅には良い日だぜ」

その後、クルック将軍が報復の総攻撃をしかける。
シッティング・ブルはカナダに逃れ、クレイジー・ホースは保留地に戻ったところで殺された。
オレゴンのネ・ペルス族も1877年に鎮圧された。これが一連の平原インディアン戦争の終わりだった。
機関砲と大砲を持つアメリカ人に、弓と矢で立ち向かえるはずもなかった。

1880年 インディアンすべての部族が、軍隊の統制のもと保留地に強制移住させられた
アメリカ政府のあてがった保留地は、肥沃でない、しかも鉱物資源のない最小の土地だった。
気候が合わない、水が劣悪・・・食料は配給に頼るしかない。
救助を受けるものとして、尊厳を失ったその精神も不安定なものにしていった。
かつての自由な生活は、もはや見られない。

そんな、すさんだ生活の中で、インディアンは昔の復活を強く願うようになった。
それが、新しい救世主信仰であり、「ゴースト・ダンス」の始まりである。
預言者や占いが人々の救いとなっていく中で、「もうすぐ、春になれば偉大な精霊が訪れ、
狩猟の獲物たちが走り回る大地を取り戻してくれるだろう。
そして、死んだ同胞たちもふたたびこの世によみがえるだろう」と説いた。
インディアンの苦悩と悲嘆が生んだ「ゴースト・ダンス」の儀式が白人には奇異に映った。
そして、この奇異が恐れとなり・・・攻撃となった。

インディアンの沈黙
1890年 12月15日、テトン・スー族族長、シッティング・ブル、
                                   スタンディング・ロックに死す。
      12月29日、ウーンデッド・二ーの大虐殺
「ゴースト・ダンス」を踊るスー族の保留地に(サウス・ダコタ、パインリッジ)第7騎兵隊がやってきた。
先導者の老酋長シッティング・ブルは射殺。
数日後ウーンデッド・二ー・クリークでこぜりあいから女性、子供を含む300人のインディアンが騎兵隊に
虐殺された。

ウーンデッド・二ー虐殺はこれまで3世紀にわたって繰り広げられたインディアン戦争の終わりを象徴する事件に
なった。1890年以降、狭く劣悪な保留地に閉じ込められて物言わぬ時間が過ぎる・・・。
3世紀にわたるインディアン抵抗の正当化について、スー族族長ワンディタンカはこう言った。
「白人はインディアンに対して、たえずその生き方を捨てて、白人の生き方をするように押し付けてきた。
もし、インディアンが白人に同じことをしたら、白人は抵抗するに違いない。
インディアンもそれと同じことをしたのだ」と・・・。


<人口の推移>
従来は北米に約100万人、中南米に約1500万人とされていたが、
最近は北米に約200万人から500万人、中南米に約3700万人から5400万人という。
このような推定値の激増の影でインディアン人口は、コロンブス到着以降、
戦争や病気による激減を極め、ほとんど壊滅状態に等しい。

これにより生じた労働力の不足を補うため、アフリカ大陸から黒人が奴隷として輸入され
鉱山や農地で酷使され始めたのは、わずか20年後の1510年代の事である。
いかに短期間のうちの出来事かが知れよう。

1607年、イギリス植民者が初めてヴァージニアのジェイムズタウンで出会ってから
今日まで400年近いインディアンと白人の関係の歴史は、大きくふたつに分かれる。
ひとつは1890年までの300年間。
この300年の間、インディアンは移住か戦争かの択一を迫る武力征服と、
幾度となく繰り返された忍従の時代だった。
戦いの一番激しかった1870年代を経て、1890年のウーンデッド・二ーで最終局面をむかえた。

もうひとつは1890年以降の約100年間。
誰の土地でもなかった広大な領土(全てがインディアンの住んでいた土地)を奪われ
狭い保留地に閉じ込められたインディアンが個人所有地を割り当てられ
農民になることを強いられ、部族共同体の生活形態を壊され、生活をズタズタにされ、
子供たちは白人の同化政策により親元を離れ寮生活を強制され、その精神から白人化させられた。
こういった、白人の文化征服のための強制政策に対する抵抗の時代である。

同化政策の下での歴史、現在につづく。



5.歴史(現在)




※このページの内容に一部書籍からの引用があります。
それらの資料は「11.書籍」にて紹介させていただいてます。
他サイトからの転写はありません。




vol.10