太極拳in上海(2)

2000年12月5日(火)

私の大失敗
今日が一緒にできる最後の日だと思っていたので、みなさんと記念に写真が撮りたいと思って
カメラを持って出かけた。といっても、使い捨てカメラです。
朝の7時ともなると十分に明るいので、フラッシュはいらないと思ったからです。
師匠の‘単鞭’パシャ!‘白鶴亮翅’パシャ!‘雲手’パシャ!パシャ!どれもカッコイイです!
おばさん方や昨日はいなかったおじさん、写真を撮る時だけ現れたおじさん・・・みんなで記念撮影。
師匠と私の単鞭ツーショット・・・奥さんと師匠のツーショット。

油断しました。フラッシュたきっぱなしボタンさえ押していれば、こんな事にはならなかったはずです。
みんな、薄暗く写ってしまったのです。本当に残念です。
明るいと思っても、朝はフラッシュを焚くべきだでした。でも、私にはちゃんと見えているのです。
映っていなくても私には見えるのです。その時の空気感・・・心躍る感覚・・・
「写真を師匠の所に全員の分を焼き増しして送るんだ」と母に見せたら、
「なにも分らないじゃないの。こんなの送れないでしょう」と言われてしまった(泣)
確かに、その場に居合わさなかった人が見たら、ただの真っ黒な写真です。確かに暗い(泣)
それは認めます。でも、私には見えるんです。
でも、送られた師匠も「何も見えん!」と思ったかもしれませんね。真対不起。

 師匠と私の単鞭


 全員で。私の右が師匠、左が70歳から始めたおばさん


楊澄甫のこと
師匠の流派は‘楊式’と呼ばれるもので、‘楊露禅’という人物が考案した動きです。
では、‘楊露禅’は何を学んだのか?それは‘陳式’と呼ばれる形でした。
太極拳の創始者は、河南省温県陳家溝‘陳長興’(楊澄甫著による)と伝わっています。
‘楊式’が現れる以前は武術太極拳といえば‘陳式’だけだったわけですから、
‘陳式’というようにわざわざ‘楊式’と区別して呼ばれることもなかったことでしょう。
太極拳が武術として形を成したのは‘陳長興’からだったにしても、それ以前から「太極」の理念は存在していた。
それが、太極拳の理念の大元であり、本質だと私は信じています。

楊澄甫著の本には、太極拳の創始者には三説あるという。
1、張三峯説 2、陳奏庭説 3、陳長興説
この中で楊澄甫が陳長興説を推している。その理由は、1の‘張三峯’は太極理論を唱えたといいますが、
その人の存在は確認されていないから。
2の‘陳奏庭’は‘王宗岳’その人ではないか、ということでやはり拳法として創始した人物ではない
という見方をしているようです。(中国語の本を読んでますので、私の訳が間違っているかも・・・)
3の‘陳長興’だけはその人の確認がはっきりしています。なぜなら、‘楊露禅’は‘陳長興’に学んだ
事実がはっきりしているからです。系譜を見れば一目瞭然です。
始まりは、「太極理論」の‘張三峯’からスタートし、同じく「太極拳論」を確立した‘王宗岳’。
その下に河南省の各先人たちがつづき‘陳長興’にいたる。
‘陳長興’から派生し‘楊露禅’に至って初めて枝分かれするのである。

ともかく、‘楊式’の開祖は‘楊露禅’。
‘楊露禅’の息子は‘楊健候’(1839〜1917)。その息子が‘楊少候’(1862〜1930)。
‘楊少候’の頃まではまだ‘陳式’の持つ攻撃性が前面に現れていた。
例えば、現在の‘陳式’のような、発頸、素早い蹴りなどである。
では、現在の‘楊式’のように、速度を一定にし、攻撃性は内に秘め(連綿不断)、
一見優雅にさえ見える‘楊式’を確立したのは誰なのか?
それが、‘楊式’を志す人が初めに耳にする人物‘楊澄甫’なのです。
‘楊澄甫’(1883〜1936)は‘楊健候’の三男です。
‘楊式’のルーツは‘楊露禅’ですが、現在‘楊式’で目指す形は‘楊澄甫’と言ってよいでしょう。

楊健候(1839−1917)      楊少候(1862−1930)     楊澄甫(1883〜1936)
 楊澄甫の父  楊澄甫の兄  晩年の楊澄甫


私事ではありますが、‘楊澄甫’は晩年太りました。
その写真の動きを真似るのはどうかと思うんですよね。
太ってるからいけないというのではありません。
でも、太ってるがためにああいう形に「見える」のであって、本人の意向とはギャップがあると思うんです。
澄甫自身が思った通りの動きが出来たとは思えないのです。
その証拠に‘楊澄甫’のキラ星が如く弟子たちは、みんな各自のスタイルを持っているではありませんか・・・。
私は精神面では‘董英傑’、武術的には‘陳微明’が好きです。
もちろん、‘王宗岳’の「太極拳論」は全ての武術家が学んだありがたーい理論です。
太極拳を学んでいる者の端くれとして、私も読みましたが、行き詰った時の「道しるべ」となるにふさわしい文章です。
だから、太極拳は単に形だけではなく、理論と精神を学ばなければ始まらないことだと思っています。
その修業に終わりはないのだ・・・と。

楊家は河北省永年県に伝わっています。
私のメル友に永年県の人がいて、彼は楊澄甫の三男‘楊振鉾’の孫弟子に当たるのだそうです。
その彼の話では‘楊振鉾’は山西省太原に住んではいるが、ほとんどフランス、ドイツで教えているそうです。
先祖の‘楊露禅’は北京で武術師範になっているし、‘楊澄甫’も晩年は上海にいた。
‘楊澄甫’の長男は香港にいたし、三男は現在も存命で山西省太原にいる。

このように‘楊澄甫’は上海にいたことがあるのです。私はこのことを師匠に聞いてみた。
「ああ、そうだよ」と、あっさりした答えだった。
「日本ではとても有名ですが・・・」「そうかい?」とこれまたあっさり。いったいどういうこっちゃ?
中国の懐は深い。‘楊澄甫’ごときで・・・といったところなのだろうか?

私の香港の師父は、‘楊澄甫’が上海にいた頃の弟子‘董英傑’の弟子である。
だから、私は‘楊澄甫’のひ孫弟子ということになる・・・?
‘楊澄甫’という人のことは、彼の著作で知るだけだが、その中で彼はこう言っている。
「先生が同じように教えても、生徒は人それぞれ功夫の進み具合は違うものだ。
学び始めて1年ぐらいはいろいろ探究心も起こり、楽しめる。
3年5年してくると見えなかったことが見えてきて深まってくる。
さらに10年20年してくると分らなくなってくる。
太極拳は、体の大小ではない。年齢でもない。各人の聞く耳如何だ。
このことは、15年くらいすると誰もが考えさせられる事だ。教育者とて同じなのだ」
これを読むと(中国文なので私の訳が間違っているかもしれませんが)指導者として
冷静に門下生を見る人であったことが窺えます。

‘楊澄甫’の弟子は高名な武術家が多数輩出されています。
例えば上海には‘田系’と呼ばれる‘田兆麟’がいますし、私の好きな‘陳微明’もいます。
やはり、私のメル友で上海の人がいるが彼も‘田系’である。
‘田系’の推手は強いんだぞーと自慢していた。
太極拳発祥の地河南省温県陳家溝での大会でも好成績を修めている。
私はこのところ推手の必要性を強く感じているので、この話を大変羨ましく聞いている次第だ。
もちろん香港に渡った‘董英傑’は‘田兆麟’と肩を並べるほどの人物ですし・・・。
(‘董英傑’‘陳微明’両先生のことは2000年香港で詳しく)

 若い頃の董英傑  陳微明


‘董英傑’はどちらかといえば学者肌の人物で、‘楊澄甫’の遺著の序文を寄せています。
自分の本にも孟子を出してきたり・・・。‘楊澄甫’の遺著の序文には「・・・天津、上海、南京、蘇州、江西、山東・・・
雲南、陝西、山西、河南、安徽、湖北、湖南・・・各地で多くの武術大家を輩出し、自身も研究を重ねられた・・・
日々の鍛錬があって初めて功夫は‘玄真’を得る」と言葉を寄せている。
どんな人でも、最後は‘日々の鍛錬があって’に尽きるのです。
私のメル友はみんな朝夕最低1時間、計3時間は太極拳を毎日しているそうです。
ちなみに彼等は本業を別に持っています。

とまあ、こんな古ーい話をしたりして師匠との時間はタイムアップとなったのでした。
私は、今日一日フリーなので時間はたっぷりあるのですが、師匠には仕事があります。
一度だけ套路を通して、再会を祈って別れたのでした。


太極拳(3)につづく・・・


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