2000年 上海

第1回 2000年12月3日〜12月6日

12月3日(日)

またも母と
母にとっては3度目の、私にとっては4度目の中国行き。
私は団体ツアー旅行に懲り懲りしていた。(2000年北京参照)
母ですら、せわしない団体旅行には音をあげていた。でも、安い旅費には代えられないし、
今回は初めての土地‘上海’でもあることなので団体旅行に参加を決めた次第である。
私はいつも新聞広告やちらしを眺めては「行きたいけど値段がね・・・。」と値踏みをしては毎度旅行を見送っている。
旅行社で置いてある持ち帰り自由のパンフレットだって、4月と10月の発行にあわせて集めたりもするが
「去年より高い」とか「去年まであったコースがなくなっている」と言っては「去年行っておくんだった・・・」と
臍をかんだり・・・。
「これぞ!」と思った激安ツアーには‘迷わず申し込もう’というのが信条となっている。
私が学んだ団体旅行の鉄則なのだ。今回の旅行も新聞広告がきっかけだった。
上海蟹が食べられるし、1日はフリーでいられるし「調度いいかも」というわけで
母を誘って「上海蟹を食べに」ちょっくら上海見物へ。いざ出発!

未知の上海
私の今までの中国旅行は黄河流域に限られていた。
というのも、‘中国大好き’といはいえ私の興味は‘古い土地’に限られているからだ。
例えばその昔、都が置かれていた町である。現在は田舎町になっていても、そこには当時の史跡や文物が残ってい
るし、
町並みにも面影があるものなのだ。そういう‘古い町’が私は好きだ・・・。
だけど、上海にはそのような歴史はないし、‘上海バンスキン’のようなモダンなイメージしか浮かんでこない。
長江河口の発展都市!収入格差の大きい中国の先頭を走る上海!
というのが、私の持っている上海に対するイメージなのである。

謎の2人・・・
団体旅行だというのに、明らかにタイプの違う2人が混じっていた。
中国でのビザは団体ビザなので、入国の際は一列に並んで名簿の名前順に審査を受けなければならない。
その名簿の先頭がなぜか私だった。
添乗員がいないので、私が仕切り役にさせられてしまった。
日本を発つ前に並び順の練習をして、前後の人の顔を確認してもらった。
その中に並んでいるではないか!
それまで、旅行社の人かと思っていた彼らは空港でひときわ目立っていた。
まるでファッションモデルのようです。えっらい美形です。スタイルも芸能人のようです。
ファッションセンスも抜群、人を寄せ付けないオーラが漂っていたのです。
持ち物もカバンひとつの彼は、どう見ても観光客には見えません。
「何しに行くんだろう・・・どうして団体に混じって行くんだろう?」
彼ら2人を除く我々は、どう見ても‘おのぼりさん’的観光客まるだしの田舎者です。
この2人をよりいっそう引き立たせ、浮いた存在にしてしまったのは言うまでもありません。
「おかしい・・・なにか訳ありなんだ・・・」と憶測が憶測をよんで、2人を除く私たちの中で
彼らの正体を暴くべく団結力がうまれていたのでした・・・。

入国審査でひともんちゃく・・・
私は日本の旅行社の人から「飛行機内で配られる入国用紙は提出しなくてもよろしいです」と説明を受けていました。
入国審査は先頭の私が持っている‘団体ビザ’を提示することで済むという話しでした。
ですから、配られた入国用紙を無視してブースにやって来たのです。
「では、並んでください。これから審査を受けます!」と私は先導した。
ところが、私の拙い中国語の聞き取りによれば、入国用紙がなければ入れられないと言うではないか!?
「聞いてません」「規則です。全員提出してください!」もう既に捨てた人もいた。
今さらここで全員に書けというのか!?私は女性係官にくいさがった。
「書かなくていいと、言われて来たんです」「規則です!提出しない人は入国の審査は受けられません!」
中国の人は自分の持ち場に責任感が強く、絶対の権利を持っています。
空港に限った事ではありません。自分の権限が及ぶ範囲では絶対の存在なのです。
・・・分からないではないけど、私だって今さら全員に書いて下さいとは言いたくなかった。
書いてない私たちがいけないのも理解できる話しだが、「いらないって言われて来たんだ。
誰も書いていません」と、半ば係員とけんか腰に・・・。こっちだって引けない。
私は「なんで必要なの?」とおかしなことまで言い出す始末。「何でってことないのよ!規則なの!」
そんな固い事言わないで・・・と揉めていたら、別の男の人がやって来て面倒くさそうに
「わかった、わかった。ハイハイ進んで・・・」と入国用紙なしで審査を受けられる事に。
女性係官は面目を潰されて、男性職員に食って掛かっていたが「なにも問題ないから」となだめられていた。
女性係官のメンツを潰してしまったのは申し訳なかった、と今は反省している私です・・・。

ホテルの変更
ホテルに到着したのは夜の8時過ぎだった。
当初予定されていたホテルは‘准海中路’に面した繁華街の近くにあったはずだったが、
それが変更になって繁華街から遥か離れた場所になってしまった。

母と私は散歩がてら外に出てみた。
ホテルの真ん前に地元の人しか入っていないような‘食堂’があった。
その隣が自転車の‘修理店’、その隣が‘靴店’、そのまた隣が‘火鍋店’(ジンギスカン鍋ですきやき風に
辛い味付けで食べる中国冬の風物鍋、四川省発祥)この4軒の他に明かりはない。
私はずっとずっと以前から太極拳用の靴を探していた。
小足(22.5cm)の私は日本には小さいサイズがないので困っていたのだ。
母と靴店に向かった。「晩上好!(ワンシャンハオ、今晩は!)」
店内には時間も遅いせいか客がいなかった。太極拳用を探してみたが置いてなかった。
普通のオシャレ靴を眺めたら「おお!オシャレ!」どれも斬新なデザインで、しかも安い!
といっても北京に比べればずっと高いのだが。むしろ日本に近い値段である。
「これ、いいですね・・・あー、あれもいいわあ・・・」などと言ってる場合じゃなかった・・・
実は、街場に出る方法を聞こうと思っていたのだ。
上海には地下鉄があるので、私としてはそれが最良かと思ったのだが、最寄り駅はここから遠いと言う。
なら、何が一番よいのだろう・・・?
靴店のお姉ちゃんは‘小型タクシー’が安くていいと言う。
値段は乗る前に交渉して決めてしまうのだそうだ。
すぐ近くに知り合いの運転手がいるからそれにしたらいいと言って勧められた。
「あさってが自由の日だから、明日靴を買いに来て(この時はまだ両替をしていなかった)
その時にどうするか決めます」と答えて、店を出た。
母は「日本円で買えないの?」と言うが、こういった一般の商店では使えない。
店のお姉ちゃんは「明日来る」って言ったけど、本気にはしていないといった表情で私たちを送りだした。
日本人として「うそつき」と思われたらかなわない。
必ず行くから待っててよ!




12月4日(月) 滞在2日目 上海市内観光

 太極拳in上海(1)(左のアンダーバーをクリックしてご覧ください)
上海で第二の師父に出会えるか・・・


初めての上海で思う事
今日は一日市内観光である。いったい上海にはどのような‘空気’が流れているのだろう・・・?
「魯迅記念館」を目指してバスが出発した。
魯迅記念館は上海の中心‘人民公園’からさらに北へ3kmほどの所に位置している。
行く道々の景色を見て、ひと目で「都会じゃー!」と思った。
首都北京とは比べ物にならないほど都会だ。
道は高架道路で幾重にも重なり、まるで高速道路に乗るのかというほどの整備がされている。
幹線道路は車線も分れているので、ユーターンはできない。スピードも高速並みである。
ビルは全て超高層。マンションであれ、テナントビルであれ、ホテルであれ・・・全て超高層。
しかも、新築がほとんどだし、現在も建築ラッシュ真っ最中である。大変な発展ぶりだ!
この風景だけ見ていたらニューヨークの摩天楼と見まがうばかりである。
私は「なんだ、ここもただの都会に成り果てたのか・・・」と、今まで見てきた黄河流域の街を懐かしく思い出していた。

魯迅記念館は「魯迅公園」の中にあって、公園の中には「魯迅の墓」もある。
普段だったら、記念館の玄関前までバスが入れるそうなのですが、
現在はそこまでの道が工事中なので、手前で降りて少し歩かなければならないとの事だった。

降りた場所というのが路地の一角で、ガイドさんにすれば‘見せたくない中国’の一角だった。
私はこれまで旅行のたびに現地のガイドさんにお世話になってきたが、
どの中国人のガイドさんも‘政治’の話と‘一般の暮らし’については語りたがらなかった。
話はいつも日本の私たちに合わせて‘キレイどころ’に限られていた。
中国の意識はまだ「日本に追いつけ」という神話の中にあるように私は感じていた。
「上昇志向」において中国はすでに「日本を追い抜いている」にも関わらずだ。
今後、まだまだ発展の余地を残している中国が‘経済’的に日本と同じになったところで中国人は今より
豊かになれるだろうか?
幸せになれるだろうか?私は「否!」と思っている。
自分で自分の首を絞めていることに、「発展」に夢中になっているうちは気がつかないものです。
足元を見ず、遠くばかりに目が向いているうちは・・・。
「万人が幸せに」などど非現実的なことを言うつもりはさらさらありません。
そんな世の中など存在しないし、実現不可能なのだと思っていますので・・・。
幸せになる人がいれば、不幸になる人が必ず存在する。それが‘人の世’というもの・・・。
ただ、国の政策として「万人が幸せに」に向かって希望を捨てないこと、努力を惜しまないのは当然ですよね?
だから、向かっている先に‘何があるのか’が問題なのです。中国は何を目指しているの?
「発展、発展」というけれど、それでどうなりたいの?テーマは?
・・・政治のテーマに「万人の幸せ」がありますか?他の国との‘競争’で人民が置き去りになってませんか?

話が横道にそれたついでに。
某国でテロ事件が発生した折、わが日本はいつもの如く某国への援助を惜しまなかった。
中国は、某国が報復攻撃を発表した際「子供っぽい考えだ」(このままの表現ではなかったと思うが)だったと
記憶している。
喧嘩をうられたといって見境なく怒りに任せて、相手国の罪ない国民を攻撃に巻き込んでまで報復するとは、
私もそれは「子供っぽい発想」と思う。
結局、騒ぐだけ騒いで首謀者は捕らえられなかったではないの?
某国のいう「正義」とやらの正体はいつでもこういったものだったし。
そもそもテロといっても、喧嘩をうったわけじゃないと思うんだけどなあ・・・?

(注記)某国に対する意見はお読みになった方によってさまざまおありでしょう。
    私は私なりに勉強不足も大目にみて頂きつつ述べさせていただいた某国の一部分に対する一意見です。
    それに、テロ推進擁護者でもありません!誤解のないように!
    ご賛同、情報提供は歓迎しますが、お叱りは一切受け付けません。ご批判もお断り致します。


上海の路地裏
バスを降りた私たちは下町の風情漂う‘中国の暮らし’の一端を目にすることができました。
道にはおやつの麺売りが自転車の荷台で商売し、軒先では簡単なひさしだけの果物屋が商売をしています。
コンクリートの道にはじかに魚をおいて売っていたり・・・。
冬だからドラム缶で石焼芋を売っていたり。
掲示板に貼られた新聞を熱心に読む人民服のおじさんがいたり。
(新聞をとっていない家庭がほとんどなので、新聞は会社で読んだり、こうして掲示板で誰でも読めるようにして
ある。)道に椅子を出して商売している床屋さんがいたり・・・。
(私が1994年初めて中国に行った時は北京の街中に自転車がお店の床屋さんが、
何台も道に自転車を止めて商売していた。そういえば1997年、2000年の北京では見かけなかったっけ)
住まいも、2階建てのレンガ造りに囲まれている。
人々の暮らしは中国何処も違わない。私はこういう風景が好きだ。
食べ物には困らない中国。ほとんど外食でも生活費の中で食費が占める割合は低い。
日本ではこうはいかない!食べ物がやたら高いでしょ!生活の基本中の基本・食!
中国では食の豊富さがこうして見てとれる。

      


確かに魚はクサイし、不衛生かも知れないが、私は気にならなかった。
道路工事に伴う溝からの悪臭だったかのかもしれないし・・・。
相手が日本語を聞き取れないことをいいことに日本人御一行さまは「汚い」だの「臭い」だのと言いながら歩いていた。
タイプの違う2人のうち年長の方は露骨に顔をしかめてもいた。
母は「黙っていたが臭かった。あそこには二度と行きたくない」と後日私に言った。
「そう?全然気にならなかったけど」と言う私に「あなたは変わってるから」だって・・・。

魯迅記念館
私は魯迅のことをほとんど知らない。
写真の顔と、作家で、日本の東北大学に留学経験がある、くらいのことしか知らない。
あっ、あと「阿Q正伝」が代表作だということぐらいかな・・・でも、読んだことはない。
館内には自筆の手紙から、膨大な著作本の数々が展示されていた。
茶館での同士との語らいの様子が蝋人形になって展示されていたり・・・。
実際に着用していた衣服も展示されていた。
昔の生地で厚手の重厚感ある素材で仕立てられていたのが印象的だった。
綿なら100%綿だし、絹なら100%絹である。中には奥さんが手編みした紫色のベストもあった。
私は編み物が好きなので印象に残っている一品だ。かぎ編みだった。
魯迅は気管が弱かったらしく、医療器具もたくさん持っていた。
喉を保湿する機械や、体温や健康状態を細かく記録していたようだ。
そして、最後はデスマスクの展示で締めくくられている・・・。
ここに来ると、魯迅がいかに中国を代表する偉大な作家であったかがわかるというもの。
日本に帰ったら、「阿Q正伝」読もうかな・・・と思った私でした。
実際、彼の作品を読むと、当時の中国から脱却を揶揄した作品ばかりだった。
このままでは中国は列国に占領され食い物にされてしまう。目覚めるんだ!という叫びを魯迅は著作にぶちまけて
いる。

外に出て、何気なく壁に書いてある‘魯迅記念館’の文字の前に母を立たせ記念写真を撮った。
現像してよくよく見たら、その文字は‘周恩来’の筆によるものだった。

 ‘周恩来’書


魯迅公園
公園の一角にある「魯迅の墓」に向かう。公園内ではお年寄りが遊んでいる。半端じゃない人数だ。
日本ではこの年頃はみんな朝から晩まで働いている。働かないと生活できない。
中国はこの点いったいどうなっているんだろう?
公園内には一日中、50歳代からの人たちが遊んでいる。働かなくても暮らしていけるんだね?
そうとしか見えない。日がな屋外でマージャン、将棋、囲碁・・・。
水筆で字のうまさを披露して見せている人。運動して体が鈍らないようにしている人たち。
社交ダンスを音楽にあわせ(ボリュームが半端じゃなく高い)練習に精をだす人たち・・・。
各自好きな事に打ち込んで思い思いに楽しんでいるようにしか見えない。
見ようによっては暇つぶしにしか見えない。時間があるというだけで、私には羨ましい限りだ。
それで暮らしてゆけるのだから。・・・どういう仕組みなのだろう?
数年後2002年北京に行った際、私はこの仕組みを知ることになるのでした。(2002年北京参照)

 麻雀 


ひとりで太極拳をしているおじさんを発見!
おじさんの太極拳は‘止まっている’かのようにゆっくりで、ほとんど動いていないかのようです。
超、超、スローです。本当にスローですが動いてるんですねえ、これが・・・
「ああ、こういうリズムもいいなあ。あれがおじさんのペースなのね」と遠くから眺めた私だった。

 木と木の間グレーのおじさん


魯迅の墓
「魯迅の墓」をバックに写真を撮ってあげましょうと母に言うと「墓で写真は撮らない」という。
わからないでもない。洛陽の「白居易の墓」の前でも同じことを言っていたっけ。

さて、バスまで今来た道を戻るわけだが、私は密かにタイプの違う2人をマークしていた。
いつも私たちから離れて最後尾を歩いていた彼らは、やっぱり団体とは離れてゆっくり最後尾を歩いていた。
私たちと同類と思われたくないかのようだった。
人を寄せ付けないオーラが漂い、他の人と一切話さなない。
「感じ悪い・・・」人に話しかけられないようにもしている。「いったい、何者?」
私は彼らの後ろをわざと歩いて、会話を聞き取ろうと耳をダンボにした。
ところが敵もさるもので、私の気配を察知したのか黙ったのだ!
「なんじゃ?やっぱり怪しい、いよいよ怪しい・・・」結局、私は何の情報も集められなかったのでした。
母に「もの好きに・・・」と言われたのはいうまでもない。「だってえ、気になるう・・・」

 郵便局。ポストも緑


豫園
「豫園」(よえん)は上海の中心部に位置している。
純中国式庭園の内部はいくつにも塀で区切られていて、それぞれ違った景観を見せている。
面積は20平方キロメートル。園内を区切る壁には龍がうねる白壁である。
明代の高官、潘允端が父のために1559年から19年の歳月をかけて築いた庭園である。
皇帝の象徴である龍をあしらったことで追及されると、龍の足の指を4本(皇帝用は5本)にして難を逃れたという。
池の中に立つ豫園のシンボル的建物‘点春堂’は庇が天に向かって突き刺さっているような屋根が特徴的である。
ここはかつて太平天国の乱に賛同した小刀会の本部が置かれ、清朝打倒を目指した本拠地だった。

ガイドの余さんは、上海のシンボルはこの壁の上の龍だと説明してくれた。
白壁の上をうねる龍は黒くて見事だ。
ここに行かれる予定のある方は、その大龍のあごの下のちっちゃな子龍に注目して下さい。
丸っこくお行儀よくちょこんと座って、大人龍を真似ていっちょ前に雄叫びをあげています。
カワイイです♪

     子竜アップ


庭園内は、ガイドの余さんにくっついてないと迷子になってしまいそうな迷路です。
出口の塀に4文字が彫られてありあました。
「宇宙の中でここが一番美しい」という意味の文字なのですが、ひとつ忘れてしまいました。
‘なんとか・大・中・宇’で、たぶん右から読んでいくのだと思う。
どなたかご存知の方はご一報ください。
‘我々現世をめでて楽しむ、現世こそが安逸の場なのだよ’と教えてもらったような気がしたのですが・・・。




豫園商場
豫園の楽しみは庭園もさることながら、商場での買い物にあると思う。
庭園の入口までは、浅草の仲見世のように商店がぎっしりの中を通ります。
売られている品々も私好みの古典的なものばかり。
「宝の山じゃー!」
私のターゲットは刀剣である。だが、この商場も迷路のよう。
似たような商店、複雑に入りくんだ細い道、角を曲がったらもう戻れそうにない。
ガイドの余さんは先に私たちを庭園に案内した。
私は後ろ髪を引かれる思いで、必死について歩いていた。
「お店に寄りたいよー、買い物がしたいよー」あとでゆっくり見ようっと・・・」
(あとで、時間を作ってくれるものとばかり思っていた私)
庭園の入り口で余さんが全員の入場券を購入してるうちに、私は刀を見つけた。
「ねえ、あの刀を見せて」と店のお姉さんに下ろしてもらって抜いてみた。
「うん、なかなかよいかも・・・箱はあるんでしょうね?」
「剣の箱はあるけど、刀用の大きいのはない」という。
「うっそー!それじゃ持って帰れないよ」
「わかった、わかった。なんとかするから!」とごそごそ適当な箱を探し始めた。
私も他人事ではないのだから、ごそごそに参加して「これはどう?」などと長さを合わせてみたりしたが、
どれも短くて合わなかった。
こうしていると意地でも買うぞという気になってくるもので、私は交渉の手をゆるめなかった。
・・・とそこへ入場券を持った余さんが戻ってきてしまった。
私は「あとで必ず戻ってくるから」と言い残して、庭園に入場したのだった。

ところが、出口はまったく違う所で、自力で入り口にはもはや戻れない。ガックシ。
しかも余さんはここで買い物の時間はとらないようだ。
私は他の人がトイレに行った隙に何とかTシャツ2枚をGETすることに成功しただけ。
宝の山を目の前にして、お買い物ができないなんて。これだから団体旅行は・・・。

我々団体が余さんに連れて行かれたのは商場内にある漢方薬店だった。
言うまでもなく監禁状態。私たちは一部屋に押し込まれて、延々説明を受けることになった。
ドアに鍵がかけられたのを私は見逃さなかった。
「これで、一巻の終わりだ・・・」と一旦は諦めたものの、ここで刀を買わねば私は刀の勉強ができない。
そう思うと諦め切れなかった。
部屋の中では、ビデオ上映から始まって、誰かをモデルにしたてて気功なるものの実演が始まっていた。
そのあとは本気にした人たちが漢方薬を購入するという段取りだ。
私は話しなど上の空だった。母もこういう訳のわからん薬には興味がない。
(かかりつけの医者しか信用しないのだ)
私は機を見て、だめもとで余さんにお願いしてみた。
「刀が欲しいんだけど」
「あるかなあ?」
「(しめた!)入り口の店にあったんです!」
「入り口に?出口じゃなくて?」
「はい!入り口です」
「間違いないね?」
「はい!」
「じゃ、行こう」
よかった、つれて行ってくれると言うのだ。
余さんと私は走った。走りながら、これじゃひとりでは絶対に行けないなと思った。

店のお姉さんは私を覚えていてくれた。
定価208元(なんで半端なの?)を166元にしてくれるという。
「なんで半端なの?150元ちょうどにしてよ」と粘った。しぶしぶながら交渉成立!
と、財布の中を見たら、細かいお金が130元しかなかった。
「130にならないかしら?」と言ってみたが、傍らで余さんがおっかない顔して立っていたので、150で手を打った。
待たせているから粘れないのだ。箱だけはゆずらず、入れてもらった。
結局、ここで買わないと買えなかった刀だった。がんばってホントよかった。余さんに感謝!

漢方薬店に戻ると、例のタイプが違う2人が外に出てタバコを吸っていた。
やはり、ここでもこの2人は浮いていた。カッコよすぎるのである。
こうしてるとまるで撮影中の俳優みたいだ。
余さんは私に「どうする?ここで待ってる?それとも、中に入る?」と聞いた。
私は母が心配してるのではと思い、とっさに「入ります」と答えてしまったが、本当はこの2人と外にいたかった・・・
見てるだけで目の肥やしとはこのことだ。
それに、この時が正体を暴く絶好のチャンスだったかも・・・。


外灘(バンド)
外灘と書いてワイダンと読む。バンドとも呼ばれている。
香港のプロムナードみたいなもので、アベックのてんこもりのメッカなのである。
ここからの眺めは上海を代表する風景として誰もが、一度は目にした事のある場所だ。

 上海テレビ塔。上海のシンボル的建物


黄浦河の向かいには上海のテレビ塔が見える。正式名称は「黄浦公園」という。
黄浦は揚子江の支流である。

 モダン上海。ここではジャズが似合う


アベックというよりは、地方からのおのぼりさんしかいない。
母は、ここで売られていた‘とうもろこし’が食べてみたいと言い出した。
だいたい、こんな所で売られている出店のとうもろこしが美味しいとは思えないが、思い出に買ってみた。
見た目はまっ黄っ黄で美味しそう、香りもいい。
ところが!その焼きとうもろこしのまずかったことといったら!
忘れられない思い出になってしまった・・・とても食べられたものじゃない!
さすがの私もあまりのまずさにびっくり!半端じゃなくまずかった・・・。
母などは「これは人が食べるものじゃなくて、馬のエサ」とまで。そういう種類なんだと。

小龍包
夕飯はレストランで‘小龍包’の食べ放題だった。
円卓に8人ほどが座るのだが、たまたま例の怪しい2人と同じテーブルになった。
私の隣が母。その隣が怪しい2人になった。
話しかけるなオーラを放っている2人は、中国産ビールを拒否し日本産ビールを注文していた。
「(感じ悪ーい)」食事中に母が年長の方に話しかけられた。「親子ですか?」と。
「(うわっ!この人話すんだ・・・)」
私はこの機会を逃してはならないと、すかさず「ご兄弟ですか?」と聞いてみた。
「そう見えますか?」本当は違うと思ったけど「ハイ」というと、母が「お友達ですよね」と助け舟。
2人は、食事が済んだら‘和平飯店’に出かけるという。商談だろうか・・・?
ついに、もうひとりの若い方の声は聞かずに終わってしまった。
参加者全員、美男子の声を聞いた人は一人もいなかった・・・。
日本人で、あれほどの美形には、いまだにお目にかかっていない私。
他の参加者のリサーチによると、パン屋さんの同業者だという人がいたが、かわいそうに全員に
ガセネタ扱いされていた。
一方では、仕事で何かの買い付けでやって来たに違いない、という人がいまして、この情報はかなり賛同を
得たのでした。
・・・と、結局本当のところは分らずじまい。
とにかく最後まで、我々との接触は迷惑だと言わんばかりの態度だったのでした。

昨晩の靴店再び
ホテルに戻ってから、約束どおり昨晩の靴店に行った。
母は「日本の米を食べてもらいましょう」というわけで、おにぎりと飴を持って出かけた。
私は目移りしながらも「最新のデザインだから、こっちがいい・・・」と勧められた靴をGET!
母でも歩き易いそうな、それでいてオシャレな靴をGET!
「お父さんにも・・・」と勧められたが、「それはいいの」と辞退した。
一足あたり70元(1000円くらい)で買えたが、物によっては日本で買った方が安いのもある。
上海の物価は日本とほとんど変わらないのだ。(このことは明日、もっとハッキリすることになる)
そしてもうひとつ発覚した事が・・・ここ向こう3軒の店舗は経営者が同じ女性だというのだ。
なんか、さりげなく火鍋店をアピールするのでおかしいな、と思ったら女社長だった・・・。
「私が経営してるのよ、おいしいわよ!」と。

 従業員のみなさん
(中央の赤い女性が、やり手女社長。左緑の服が持っている銀紙ホイルは日本製おにぎり)




12月5日(火) 滞在3日目 フリータイム

 太極拳in上海(2)(左のアンダーバーをクリックしてご覧ください)


フリータイムin上海
さあ!今日は夕方までたっぷり時間がある。
母とゆっくり朝食をとってタクシーで出かけようと思っている。
ここからは地下鉄の駅も遠いし、ホテルの前にロータリーにはタクシーが待機していたので、それに乗っちゃおうと
考えていたからだ。
朝食をとっていると、いっしょに来た、おばさまになりかけのお姉さんふたり組みに話しかけられた。
「動物園に行こうと(パンダが見たいので)考えてるんだけど、ガイドの余さんが
‘今は海外に出ていて1頭もいない’と言うのよ。
本当かしら?」と聞いてきた。
「そんなバカな!中国の動物園にパンダがいないなんて」と私は答えたが、余さんの魂胆は読めた。
今日はオプションで蘇州一日観光に参加が出来る。余さんは一人でも多く連れて行きたいのだろう。
だから‘動物園に行ってもパンダはいない’などと嘘をついて脅したのだろう。
「あなたはパンダ見たんでしょう?どこで?上海はパンダの本場ですものね・・・」と
お姉さんふたりはパンダが見たいわりには、‘上海雑技団のパンダの芸’と話がごっちゃになっていた。
「(パンダの故郷は四川省だろ!)」と思ったが黙っていた。
結局お姉さんふたりは、上海動物園に出かけていったのでした。

さて、私たち親子は・・・上海一の繁華街南京路に行きます!
南京路には上海の老舗デパート、日本でいう天下の‘三越’、北京でいう‘北京市百貨大楼’
上海の‘上海市第一百貨商店’があります。まずは、ここで上海の物価をリサーチして・・・と。
それから書店街の福州路に行こうと思っています。
私はこれまで中国の書店に行ったことがないのです。(香港の書店はありますが)欲しい本はたくさんあります。
もちろん、太極拳関係の本です。
言うなれば母そっちのけで、私は自分の買い物しか頭にありません。どうなることやら・・・。

タクシー
昨晩夕飯のレストランから私と母だけタクシーで帰された。
というのも、皆さんはオプションで‘上海雑技’を見に行ったのです。
母も私も‘京劇’ならいざ知らず‘雑技’(サーカス)には興味がないので参加しなかったのです。
余さんは「本当は送らなければならないのですが、タクシーで帰ってくださいませんか」と言って、
タクシーを拾ってくれた。
「領収書をもらってください、明日お支払いします」と言われて帰って来たのでした。
疑り深い私は、乗るとすぐにメーターを確認し、言われたとおり領収書をもらった。
距離も近かったせいか、たったの10元(150円)だった。
だから、タクシーは安全で快適だということを体験済みだったのです。
母と「これなら明日もタクシーでもいいね」と話していたのでした。

ホテルの前に客待ちしているタクシーの運転手さんに「だいたい幾らぐらいで行きますか?」と聞いてみたところ、
30元くらいだという。
日本では後ろが定員になって初めて助手席を使うが、中国では客がひとりなら助手席に乗るのが普通である。
助手席と運転席は透明のついたてで仕切られている。
(ニューヨークでは前方と後部座席が仕切られていますよね・・・)
お金の受け渡しは、ついたてのわずかな隙間から受け渡しします。
私は迷わず助手席に乗り込み、メーターを確認した。
この時、車内に貼ってあった注意書きを見てなるほどと納得したことがあった。
なぜ、助手席に乗るのか?注意書きによれば「お年寄り、子供は、危険なので前の席に乗って
シートベルトを締めてください」とある。・・・危険防止。客の安全のためだったのです。
ニューヨークは逆です・・・運転手の安全のため。

時間帯が渋滞の時間だったらしく、なかなか車が進まない。
運転手さんは申し訳なさそうに「また止まっちゃったよ・・・スイマセン」と言う。
「なにも急いでいないから気にしないで」と言っても「スイマセン」と言う。
おかしいな?と思ったら、メーターのことだった。
どうやら距離ではなくて、時間でメーターがあがる仕組みらしい。
30元くらいといってしまったのに、このままでは超えそうなのだ。
「仕方がないですよ、気にしないで」と言っても、少しでも隙間があると割り込んで、ガンガンスピードを
あげるのだった。
渋滞で進まなくなると退屈なので、何か話題でも・・・と運転手さんのことを聞いてみた。
「若く見えますが何歳ですか?」「25歳です」
そして、すぐさま聞いてもいないのに「子供がいるんです」と顔をほころばせた。
かわいくてしょうがないらしい。「いくつ?」「1歳です」「女の子?男の子?」「息子です」
彼は23歳の時結婚したといいます。とても幸せそうでした。
朝の渋滞で結局43元(40分くらい乗っていた)になってしまったけど、子煩悩に免じて支払いました。

 助手席との仕切りはこんなです

 領収書は必ずもらおう!


上海の物価
降りて真っ先に‘上海市第一百貨商店’に入った。店内は買い物客で大繁盛。
内部の配置も日本と変わらない。
エスカレーター近くに掘り出しセール用のワゴンが置いてあるところもそっくりだ。
しっかし、その値段の高いことといったら!下手すると日本より高いかも!
婦人用のセーターが約3000円ほど。もちろん品質は上等です。
紳士物も生地も、仕立ても良かったが値段もよかった。
冬なので、コート、オーバーの類が多かったが厚手のオーバーが日本円に換算すると3万円もしていた。
それなのに、現地の客にバンバン飛ぶように売れているのでした。
私の方はと言うと「(これは早いとこ退散しなければ)」と思ったのでした。
とてもじゃないけど、太刀打ちできないお値段です。‘上海市第一百貨商店’だからなの?
いやいや、地元の人がバンバン購入しているのだから、これも上海の一面なのだろう。
いやはや、とんだ大都会だよ・・・

福州路の書店
‘南京路’から通りをひとつ飛ばして平行に走っているのが‘福州路’である。
‘福州路’は日本でいう神保町みたいなもので、書店が集まっている通りである。
でも、実際行ってみるとポツンポツン間隔が開いて数件あるに過ぎないのですが。
しかし、一軒一軒が大型書店なので、見ごたえ十分である。
私がたまたま入った書店は5フロア程だったと思うが、それぞれ分野別のフロアになっていて、一階一階が広い。
文学、芸術、語学、体育(スポーツ関係)、保健(健康関係)・・・。
母が退屈するのでゆっくり見ている時間はありません。寄り道なしで‘体育’のフロアに向かった。
足球(サッカー)、バスケットボール、バトミントン、卓球、気功、武術・・・「これはスゴーイ!」
私は宝の山を前に興奮した!日本で私が欲しいと思う太極拳の本を手に入れるのはまず不可能だ。
なぜなら、私が欲しいのは‘古典書’だから・・・。
現在活躍中の武術家や体育大学等教育機関の人が書いた本は日本でも見かけますが、
今は亡き武術家(50年から100年ほど前の人物)となると皆無に等しい。
でも、さすがは中国!ここには選り取りみどり・・・

「これはいいぞ!・・・これも欲しいし、これもいい!・・・あらら・・・なんともはや・・・
あっ!なんと・・・これはこれは・・・アーッ!ムムム・・・」と絶叫の嵐。
母は呆れて(本好きということを知っているだけに)もう、ここで一日終わってしまうのでは、と思ったのか
気が気でないのでした。
私は私で‘待たせてる’と思って落ち着いて見ていられないし・・・。
ようやく絞り込んで3冊購入に落ち着きました。
以前香港で書店めぐりした際と比べると、高級書(装丁が立派で、写真が豊富)においては香港に敵いません。
ここ上海にあるのは、わら半紙のテキスト本がほとんどなのです。
でもそのバリエーションにおいては上海の書店の方が断然豊富でした。
もっと、ゆっくり見たかったなぁ・・・。

 陳微明著      超カッコいい!

 陳式の全てが一冊に!   楊式刀。これから勉強を始めます!

後に2002年北京の書店にいった際、書店によって各分野の品数に大きな開きがあることに気がつきました。
私が上海でたまたま入ったこの書店にはたまたま太極拳関係が多かったのだ。
運が良かったというしかない・・・(詳しくは2002年北京で)

焼き芋と長屋
また、‘南京路’に戻ってお土産を買います。途中、自転車の焼き芋売りのおじさんに遭遇。
昨日の、‘黄浦公園’のとうもろこしに懲りもせず「食べてみたい」と母。
「懲りないねえ・・・」とぶーぶー言いながらも、書店で待たせた償いにと購入することに。
手ごろな大きさ(ゲンコツふたつ分くらい)で1元(15円)でした。

 南京路は歩行者天国


 南京路を行列するお子達


‘福州路’から‘南京路’を結ぶ‘西蔵南路’は母が申すに「長屋」だという。
3坪ほどの商店が並んでいる。どの店も似たような品を置いていて、買いそびれて歩いていても心配は要らない。
またクローンが現れるのだ。
日用品、下着、衣料品、手袋、偽物の石・・・怪しくて、胡散臭いところがいい。
オフレコだがブランドのコピーも豊富だ。この長屋の何軒かで買い物をした。
母はウール100%のスカート、チャイナカラーのブラウス、お土産に皮手袋(縫製が悪い)
ヒスイ風の干支根付(プラスチックみたいだった)、箸5膳(模様がキレイ)、
父にはイヴ・サンローラン(?)の財布(ダンボールに入って表に出ていた)などなど・・・。
これって犯罪なの?「長屋」よ、不滅なれ!
北京の‘王府飯店’と‘王府井’の間の通りも「長屋街」(この時も、母が命名した)だった。(2000年北京参照)

南京路
‘南京路’を真っすぐ進むと‘黄浦公園’にでる。歩行者天国のお買い物通りである。
平日だというのに大変な混雑だ。地方からの旅行者がほとんどかもしれない。
歩行者天国内唯一の乗り物といえば遊園地にあるような連結バス。車体は赤。協賛は‘マクドナルド’
私と母は歩行者天国のベンチに腰掛けて、さっき買った‘焼き芋’を出して食べ始めた。
すると、物乞いが近寄ってきた。「(どうしよう・・・)」
まさか食べかけの焼き芋を差し出すわけにもいかない。
お金にしても、幾らが相場なのか見当もつかない。
「(困った・・・)」母に相談しても答えはでない。無視を決めて‘焼き芋’を食べ続けた。
物乞いのおじいさんは、しばらく粘っていたが知らん顔の私たちから次なるターゲットに向かって去って行ったのでし
た。
去って行った先を目で追っていたら、次にターゲットになったおじさんは小銭を渡していたのでした・・・。
ところで、‘焼き芋’は恐ろしく美味しかったけど、こんなことがあった後ではその美味しさも半減した私だったのでし
た・・・。

この間、母は回転寿司の‘平禄寿司’まで見つけていた。
‘焼き芋’を食べたばかりだが、「つまんでみよう」と言うのだ。
「なにもここに来てまで食べなくたって・・・」と言いながら店先まで行くだけは行ってみた。
「上海のネタを見るだけでもいいじゃないの」と母。
「どっこも同じよ、平禄は平禄なんだから」と私。
結局入らなかったが、入ってもよかったかな?と惜しいことをしたと思い始めている私だ。

メロンも売っていた。母は何でも欲しがる。
「上海のメロンも食べてみたい」と‘焼き芋’に気をよくしているが‘黄浦公園’のとうもろこしは忘れてないでしょうね
(笑)
「どうせ、美味しくないに決まってるわよ」と冷ややかな私に「いいから買って」とねだる母。
見た目には鮮やかなオレンジ色で、バナナのように長く切ってあり、割り箸に刺さっている。
イメージはアイスキャンディーだ。
母は一口食べるなり「固い!」と言って、私に食べかけを押しつけてきた。
ただガツガツしてるだけで、甘みもない・・・なんだろう?メロンはメロンだが大根のような固さ。
ぜんぜん味がしない。「・・・だから言わんこっちゃない」メロン大失敗。
どんなに喉が渇いていても、このメロンでは却って喉にに詰まりそうだ。

昼食、場末の食堂
私は‘焼き芋’に‘メロン’で、それほどお腹がすいているわけでもなかったが、「昼食は昼食だ」と主張する母。
「それでは・・・」と‘長屋’近くの食堂に入った。
その食堂は‘上海市第一百貨商店’の斜め向かいにあって、2階が店舗になっている。
1階で店のお姉ちゃんが呼び込みをしていた。
2階の窓に貼り付けてあった文字によると‘火鍋’が売りの食堂らしい。
母もお腹がすいているわけでもないので、本格的に食べたいわけじゃないと思います。
「まあ、餃子くらいならどこにでもあるだろう」と飛びこみで入ることにした。

店内の入り口は、すれ違えないほど狭く急な階段を登らねばならない。
「大丈夫なの?・・・なんだか怪しいわねえ」と母。
「大丈夫だってば。任せてよ」と私。・・・とは言ったものの私にも‘当たり’か‘外れ’かなんてわからない。
一か八かの賭けだ。店内は思ったよりは広く、こざっぱりしていた。
テーブルクロスは赤のチェック模様。
「あら、思ったほど広いわね♪」と母。「うん、いいじゃない?」と窓際の席に着いた。
お昼時を過ぎていたせいか店内に客は少なかった。
お兄さんにメニューを渡されて、「まずは、餃子。それから・・・セロリと百合の炒め物」
母は私にお任せ状態なので、何が出てくるか分からない。

お茶を飲みながら店内を眺めると、やはり他のお客さんは‘火鍋’を食べていた。
冬場だし、ここの名物なのだろう。鍋は唐辛子でスープがまっ赤っ赤。
ひとつの鍋を2,3人で囲んでいた。そうこうするうち餃子が届いた。
「タレをどうしますか?」とビンを2,3本持ってこられた。「全部入れてもいいですか?」と聞かれたので、
「ハイ、全部入れてください」と答えた。‘酢’‘醤油’‘?’を調合したもよう。
「どれどれ・・・」「美味しい!やっぱり中国の餃子は違うね♪」
どうして美味しいんだ?水の違い?粉の違い?美味しい!セロリと百合の炒め物も登場した。
「あらっ?百合?」と母。「そうよ。好きでしょ?」と私。(百合根は母の好物です) 
「あらー、まさか中国で百合が食べられるとは思ってもみなかったわー。」と感激する母。
美味しい料理でした。次回上海に行ったときも必ずここに来ようっと!

トイレ、場末の食堂
母がトイレに行きたいといいだした。お店の人を呼んで連れて行ってもらった。
店内にはトイレがなく、お店の人が使っているトイレしかないと言う。
店内の奥に消えた母がすぐに戻ってきた。
「すっごい急な階段で怖くて降りられないから、もういい」と言うのだ。
母の話では厨房はその‘すっごい急な階段’の下にあったと言う。
「この料理をあの急な階段を登って運んでいるのよ、大変ね」と。

帰りには入り口の階段を下りる際、お店のお姉ちゃんが母に手を貸してくれた。
本当に親切な若者だった。母も感激していた。
年長者を敬う気持ちが強い中国と言われているが、この先核家族化が進んで
(住まい事情からそうなることは将来必至であろう)いずれは日本の若者のように‘けじめ’のない言葉遣いを
発するようになり、
敬語も尊敬語も話せない若者にならないことを祈ります。
言葉遣いなんていうものは、育てた親のコピーなんだろうけどね。
家庭の中で聴いてるのを真似るところから始まっているわけだから・・・。
敬いの気持ちだって、家庭の中で両親が、祖父母にどういう接し方をしているかを子供が見て覚えるのだし・・・。

買い物!ラストスパート!
‘南京路’の大きな食料品店で、お土産物をまとめ買い。父へのタバコも購入。
ここは中国各地からの観光客でごったがえしていた。
買い物するにも、カウンターにひとりのお姉さんに対して、客が群がっているといった感じだ。
ライバルがたくさんいて、遠慮していたらいつまでたっても買えそうにない。
ここは、「積極的に注文しなければ!」と私も珍しく積極的になった。
タバコは種類が多いので迷うところだが、緑のパッケージにパンダのイラストが書いてある「大自然」という
銘柄にした。
父に好評だった。

集合マーケット
今日の夕飯は、今回の旅行の目的‘上海蟹’である。
料理も‘蟹づくし’と言うことで、4時半にホテルのロビー集合ということになっていた。
その時間までホテルに戻らねばならない。
まだ、時間はあるが今朝のように予定外に渋滞にあったのでは遅れる可能性だってある。
私と母は早めにタクシーを拾ってホテルに戻った。
本当は、私はもっとゆっくりいろんなのが見たかったのだが、母が急かすので・・・。

帰りは渋滞もなく順調についてしまった。(32元だった)待ち合わせまでまだ1時間以上もある。
私は、「確か、近くにマーケットらしいのがあったはず」と、母とホテルから歩いて5分ほどの商店に向かった。
説明は難しいが、ひとつのビルに何店舗も入っている‘集合マーケット’である。
食料品と陶器以外はなんでもあった。ここで、2001年カレンダーを買った。
それは一点もので、著名な書家が書いたと言う「風雨同舟」が台紙になっている。
「牛の水墨画」とこの「風雨同舟」で迷ったが、店の人が「こっちがいいよ」と、書かれてある
四文字熟語の意味を説明してくれた。

他に中国ならではの、窓に貼り付ける1対の縁起物を購入。
2対買ったら小さいサイズを1対おまけしてくれた。
母は茶の間の窓にデカデカと中国貼り絵を貼り付けて悦に入っていた。
いつも来る近所のおばちゃんたちが「中華料理屋みたいだ」と言って母をからかっていた。
私はなかなかいいと思うんだけど・・・。
それも、今では色あせて粘着力もなくなり、窓から姿を消してしまった。

 学校帰りの小学生。その後方赤い看板が集合マーケット


ガイドの余さんのこと
余さんがロビーに迎えに来てくれた。「昨日のタクシー代いくらでしたか?お支払いします」という。
「いいよ、そんなの。豫園では散々お世話になったし、要らないです。本当に要らないです」と辞退したが、
「規則ですから」と言って譲らない。困った人だ・・・。
彼は‘上海師範大学’で日本語を学んだという。とても自然な日本語を話していた。
観光中にバスの中でちょっとした中国語を教えてくれた。
‘こんにちは’(ニーハオ)とか、‘おいしい’(ハオチー)とか、数の数え方とか・・・。
ここ上海には‘上海語’がある。中国各地にその土地土地の言葉があるのだ。
それは、日本の方言とは状況が違って、まったく別の言語なのだ。
だから、北京の人が上海の人が話す‘上海語’を聞いてもそれは外国語なのだ。
例えば、上海語でニーハオは‘ノンホー’となる。ちなみに広東語では‘ジョーサン’である。
中国は広い・・・

上海蟹
待ってました!旅行のメインイベント上海蟹!
今日、オプションで蘇州に行った方の中には、蘇州名産の見事な刺繍が施されたチャイナドレスをお召しの
ご婦人もおられます。
上海動物園に行ったお姉さんふたりは、めでたくパンダとご対面されたそうです。
団体ツアー旅行の楽しみは、縁あって一緒になった人たちとの、こういった交流だと思う。
それにひきかえ、例のタイプの違う2人はレストランまで来たのに、上海蟹もいらないという。
余さんが「上海蟹ですよ」といっても、「ああ、いらない」とにべもない。
レストランの近くに行きたいところがあるらしく、バスに乗っては来たが、別の場所で食事をとると言って
行ってしまった。
たまたま私たちのテーブルが、あいた2人分を余分にいただけることに。
私の隣りに座ったおば様はお友達と参加されていたが、買い物のことを私に聞いてきた。
「私は中国で靴が欲しかったのだけど、どこかで見かけましたか?」と。
「私たちはホテルの前の靴屋で買いました」というと、
「ガイドさんはそういうところには連れて行ってくれませんものね」と・・・。
我々日本人が観光で連れて行かれる土産物屋は高級品ばかりで、普段に履くような靴は買えない。
おば様は、日本ではなかなか購入できない年配向きの靴が欲しいと思って、この中国旅行を楽しみにしていたと
言います。
人それぞれいろんな目的があるものだと思った・・・。

ところで、上海蟹ですが・・・ちっちゃい蟹で、食べるならメスでなければ意味がない。
余さんが食べ方を説明してくれた。パカッと甲羅をとって、オレンジ色のミソを食べる。
おいしー蟹のミソなんて初めて食べた!チョピットしかないが、あまーい
「上海に来てよかった、幸せー♪」この日の料理は全て蟹入りメニューでした。
「かに、蟹、カニ・・・幸せー♪」日本で上海蟹を食べることはたやすいことでしょう。
でも、私が贅沢と思うのは、旬の上海蟹を食べるところにあります。
この幸せは、国交が正常であることと、自分自身の健康がなければ達成できるものではありません!
日中の友好と、健康を祝して・・・乾杯!




12月6日(水)  帰国の朝

 太極拳in上海(3)(左のアンダーバーをクリックしてご覧ください)
ハイチュウ持ってお別れに・・・。


飛行場で
タイプの違う二人は仕事の仕入れに行ったらしい。
なぜなら、でっかいダンボール2つが持ち込まれたからだ。他の品は輸送したのだろう。
いやはや、罪なことです。いたいけな団体にまじって、旅費が安いからといって仕事だなんて・・・。
純粋に観光を楽しもうという人たちといっしょに来たからには、それなりの努力をして欲しかった。
何度となく買い付けに来ていたのだろうが、団体は団体らしく‘旅はみちづれ’という気持ちで交流しましょうよ。
っていう私の態度も怪しいものだが・・・。

私みたいに日常ほとんど家の中で仕事をしていて、人と会わない生活をしていると
旅先でいろんな人と一緒になるのも悪くないと思える。
旅先で、嫁姑の愚痴を聞かされても、それはそれで悪くないと思っている。
それに、今までの団体旅行でひどく悪質な人といっしょになったこともないし、‘Going my way’の性格が幸いして
楽しめている。

最後に
初めての上海の感想です。
写真アルバムに当時書いたメモがありましたので、そのまま書きます。編集なしの原文です。


上海は大都会で人間もそれなりにアメリカに近いというか垢抜けてるというか・・・
かと思ってたら、否。中国でした。安心しました。
まだ、古き良き?中国が残ってて・・・
でも、それも時間の問題のようです。
高級マンションが立ち並び、デパートの値段も世界と同じように値が上がれば
収入だって、それなりに必要になるし、高級指向で内面もガツガツしてくるだろう。
前進するしかないように仕向けられて、それに乗っかってしまうだろう。
建設ラッシュの上海は外側から変わっていくのは必至と思う。
生活が豊かになったことで人の心がすさんでしまうのは何とも悲しい。
私としては今後も中国に行き続けることになるわけだが、
私だけは、いつでも変わらない心持で接していこう。
太極拳の故郷である中国が太極の心を見失ってしまうのは
私にとって師匠がいなくなることに等しい。
いつまでも私を導いていって欲しい中国であることを願っている。



2000年上海完


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vol.35