2000年 北京

第3回 2000年3月28日〜3月31日


3月28日 またしても母と
母にとっては2度目の、私にとっては3度目の北京。
私にとって中国は何度行っても、行き足りない国である。
今回のコースには、私も母もまだ行ったことにない‘頤和園’が含まれていました。
‘王府井’では短時間ですがフリータイムもありました。
今まで、買い物では散々泣かされてきているので、北京一の繁華街‘王府井’では思いっきり
買い物をしようと楽しみにしていた。
母も、今回の旅行は3泊4日(実質2日間の観光)なので、気軽に参加できたようだ。

大連経由で北京に行くことになったので、大連でいったん飛行機を降りて入国審査を受ける。
機内から見えた大連は思った以上に都会で、高層ビルが立ち並び、コンビナートらしき工場からは
モクモクと噴煙があがっている。近代都市だ・・・。
「それにしても空気悪そう・・・」が、私の大連の印象である・・・。
夕方、入国審査を無事終えて、北京に向かう飛行機に戻る時、小さな窓からチラッと見えた夕陽が素晴らしくきれいだった。
うちの母はモンゴルに行くのが夢で、「モンゴルで見る夕陽は素晴らしいんだってよ」と言っては
遠まわしに「モンゴルに行きたい」ことをアピール。
この大連の夕陽を見て、「モンゴルに行かなくても、こんなに夕陽がきれ・・・」と呼び止めて言おうとしたら、
母はずっと先に行ってしまっていたのでした・・・。見て欲しかったのになぁ。
1994年北京で見た夕陽もよかったし、1988年カナダの夕陽もよかった。
北方の夕陽はどうしてこんなにきれいなのだろう・・・?


北京空港?
前回母と来た時も、北京空港は木枠の窓枠にガラスだった。私はそんな北京空港が大好きだった。
滑走路を自転車が横切る光景を見ると「また中国に来れた」実感が湧いてくるのだ。

滑走路に車輪がググッーと着陸し、空港の建物までそのままゆっくり移動する。
・・・やけに長い。まだ空港の建物が見えてこない。
既に夜なので、暗くて周りがよく見えないが、なんだか様子が違う・・・もしかして広くなってない?
・・・と!煌々と明かりがついた建物が見えてきた。北京空港だ。
「はあ!?」私は口を開けたまま言葉を失った・・・。
隣りに座っていた母の肩を叩いて「ちょっと、ちょっと・・・」と、窓の外を見せた。
「あらー・・・」母も言葉を失った。空港はすっかり近代的に新しくなっている。しかも巨大だった。
もう、永遠に私の大好きな空港は戻らない。驚きとショックと・・・。

内部ももちろん新しくてきれい。私、聞いてないよ、新しくするなんて・・・(泣)
北京に到着したという実感などゼーンゼーン湧かないし・・・。
「これじゃ成田から成田へ来たようなもんじゃんか!?」
母は「いつまでも昔の中国のままじゃないのよ」と・・・。そうね(泣)
‘眠っていた獅子がすっかり起きてしまった’みたいです。
なんか、中国の向かっている発展を垣間見たような気がします。
私の行き場が無くなったようで悲しくなったのでした・・・。




3月29日 もう厭きた万里、初めての頤和園

 太極拳in北京(1) (左のアンダーバーをクリックしてご覧ください)
私は早朝5時半に起きて、太極拳をしてる人を求め匂いをだけを頼りに歩きだした。


高速道路
今日は北京郊外の観光になる。はじめに‘万里の長城’に向かう。
母も私も万里にはもう行かなくてもいいんだけど・・・と思っていたが、その後行くことになっている‘頤和園’にだけは行きたい。
私は‘万里’に着いたら「買い物しよう」と考えていた。
1994年‘万里’で買った中国服は1997年に始めた太極拳で一度だけ着る機会があった。
いつもはジャージ姿で練習しているので、これまで一度しか着る機会がなかった・・・。

‘万里’までの道のりは1997年母と来た当時3時間ほどだった。
1994年一人で来た時はでこぼこ道を一日がかりの観光だった。
今回3年ぶりに万里に向かっているが、やたら速い気がする。
それもそのはず高速道路ができていたのだ。中国は急速に発展を拡大している・・・。
「変わったねえ・・・」「ほんと、ほんと」昨夜の空港といい、何もかも変わっている。
急速に変わりすぎていて北京はまったく別の風景になっていたのだ。
高速を走ること1時間半ほどで到着してしまった。速い・・・以前とは比べものにならない。
道路事情だって、たかが6年前、3年前とはえらい違いだった。

6年前まではトラックの荷台にまで人が満載で、ものすごいスピードでパーパラパーパラ、クラクションが鳴りっぱなし。
車線など完全無視で真っ向から車が猛スピードでやってくる。
そんな中を馬が横切る、羊が道の真ん中を占拠する、傍らにはのんびりラクダが歩く・・・。
人は飛び出してくる・・・で、シッチャカメッチャカだった。
3年前には、トラックの荷台に‘ほおっかむり’して乗っている人などお目にかかれなくなっていた。
目に付くのは、急激に増えた自家用車。朝の通勤では、自転車が当たり前の光景だったのに、
それが自家用車に取って代わり、道路の渋滞はひどいものになっている。
第一、車の排ガスで朝から空気の悪いことといったらない・・・。
自転車は自転車で、‘マウンテンバイク’の華やかな色ばかりが目立つ。

それにもってきて今回である。
自家用車も外国産の高級車がやたらと増えている。
北京の街中は午前8時を過ぎると、排気ガスで空気が一気に悪くなる。
これでは太極拳などできるわけがない。空気吸い込んだものなら病気になりそうだ。
普通に息してるだけで鼻の中が真っ黒になるんだから・・・。
・・・道から馬、ラクダ、羊、ヤギ・・・が消えてしまった(悲)

男坂
長城に入場する階段を上がると、右は緩やかな女坂(海側)、左は急な男坂(砂漠側)に分れます。
母も私もこれまで女坂方面にしか歩いていません。
今回は男坂に挑戦、といっても・・・行ってみるだけで深追いする気はありません。
私たちは現地ガイドの蒋さんに、長城内にある土産物店に案内され「ここに戻ってきてください」と言われ解散した。
分り難い場所にある土産物店なので、蒋さんが長城まで連れて行ってくれる。
「分らなくなったら、目印は‘緑の屋根’ですよー」と説明を受けた。

 うねうねと龍のように続く万里


男坂は急だといわれていますが、途中まではそれほどではありません。
むしろ、人が少ないので、こっちの方が歩きやすいほどでした。
私と母はすぐに飽きてしまって、抜け駆けでお買い物しに下へ降りていきました。
そこは、長城経験3回目の強みです。
「この辺から降りれば行けるはず・・・」と見当をつけて降り始めた。途中で、‘八達嶺’の石碑を発見。
3回も来てて、この石碑を見るのは初めてでした。
読めないほどの達筆で「ここを見ずして中国を見たと言うなかれ」みたいなことが、赤い字で書いてあります。
・・・この石碑から下を覗いた所に商店発見!

 「不到・・・」だけは読めるが・・・


子ギツネ
首から証明書(国営の商店なので安心して買い物してください)を提げたお姉さんが、上手な日本語で声をかけてきた。
「ワタシガ、オテツダイシマス。日本人デスカ?」
「・・・そ、そうですけど」「どうぞ、どうぞ。見るだけどうぞ」中国も変わったものだ。
以前だったら、証明書など首から提げてなかったし、こんなに丁寧な日本語も話さなかった。
この証明書のお姉さんは店の人ではないらしく、店の強引な客引きから、外国人のお客さんを守る国家公務員のようです。
こういう人が見張っているおかげで、以前のように店側は暴走ができなくなってしまった。
外国人と見るや高く売りつけたり、品物をすり替えてよこしたり・・・。
トラブル防止が役目なのだろう。でもー、そういう怪しいところが中国の良さでもあったのだけど・・・。
自分がしっかり見張ってないと何よこされるかわかったもんじゃない、スリリングな買い物。
値切りも自分の腕次第。値切りすらできない中国なんてつまんなーい!
私の好きな中国がどんどん消えていく・・・。

ここ長城ではモンゴル系(?)北方の品が多く見られるのが特徴です。(1994年北京参照)
母が店の軒先に下げてある‘キツネの襟巻き’を眺めていました。
銀から、金から、親キツネから子キツネから・・・よりどりみどりです。
足も手も付いているので、かなりリアルです。化けて出て来られそうで怖い・・・。
でも母は、欲しがっています。私の母はいつも見境なく後先考えずに衝動買いをします。
しかも、懲りずに何度も繰り返しているのです。
私はその点母に似ず、あれこれ吟味した上で買わずに後悔するタイプです。
母は値切るのが恥ずかしいと思っている人ですから、言い値で買ってしまうに違いありません。
5千円と聞いて「安い」と判断した母は即行で買おうとしていました。
そこへ私が「待った!」高くもないのに値切るのが私流です。結局3千円にした。
他にも私は中国服を250元から半額以下の120元でお買い上げー。
それでもまだ高いと思う私ですが・・・。
帰りがけ、今まで黙ってみていた公務員のお姉さんに「あなた買い物上手ね」と言われた・・・。
母の子キツネは日本に帰ってきてから、買った値をはるかに超える高値でクリーニングに出された。
が、一度も身につけられることはなかった・・・。


武器
私たちはさらに下にある土産物店まで降りていった。
下にはたくさんの土産物店が軒を並べる激戦区である。呼び込みの声もひときわ高い。
私は私で獲物を狙うハンターのように‘剣’を物色していた。
太極拳では武器として剣や刀を使います。
今持っているのは横浜で買った1本だけ。それを練習に使っているが、高いばっかりで作りが悪い。
アルミなので軽いのはよいのだが、やはりもう1本、本番用に持っていたいと考えていた。
・・・てか本番、ってなんだ?(笑)
店先にあった剣の刃を抜いてみる。「おお!」いいじゃん♪振ってみる。「おお!」いいじゃん♪
しなりもまずまずだ。「これ、いくらですか?」「240元」「え?たかーい、たかすぎる」
「200元でいいよ」「まだまだ、たかいです」「なら特別に150元にしてあげる」
「もういいです。そんなに高いなら要りません」私は本気でそう思ったので、その場を立ち去ることに。
剣はなにもここだけに置いてあるわけじゃない。他のところも見ようと思ったのだ。
そしたら・・・背中で声がした。「100元!」「!?」100元だって?
私はとっさに振り返り「いま100元、って言いましたよね?」と念を押し、めでたくお買い上げー。
お姉さんはしぶしぶ「聞こえたか・・・」といった様子で、むき出しの剣を私に押し付けようとした。
「(始まったよー)箱入れてよ、箱!」「ちゃんと紐で縛って!」とテキパキ指示を出す私。
100元の気が変わられては困るので、さっさと剣を受け取って立ち去ったが、
いかに焦っていたか‘剣穂’(剣の下につける飾り、剣の必需品)をおまけしてもらうのを忘れた・・・。
結局、2年経ったいまも本番はやってこず、この剣はまだ一度も使われていないのでした。


危うく迷子
さあ、買うもの買ったし、戻りましょうか。
・・・ところが、買い物に夢中で戻り方が分らなくなってしまったんです。
「あれっ?」「こっちだったよね・・・」と言う私に、
母は「違うでしょう、こっちから来たのよ」と言ってきかない。
「うそお!この門を抜けて、上がったところにあるんでしょう?」
「ちがいます。そっちからは上がれません!」と一歩も引きません。
「いや、絶対こっちから行けるって!」と、押し問答しながら私は自分が思った方向へ走って行ってみたのでした。
来た道を戻る道ではありませんが、方向的には合ってるはず!と私には
自信がありました。ところが、行けども、行けども上がり口がありません・・・。
「あやー?」
「だから、言ったじゃないの!門なんかくぐったら外でしょう?」
「そりゃそうだけど・・・」
集合時間は迫ってくるし、見当が外れてショックだし、で私は少々パニクッていました・・・。
そこへ、中国人のおじさんが通りかかったのです。
母がすかさず「あの人に聞いて!」と言うので、「緑の屋根の建物に行きたいんだけど、どう行けばいいですか?」と
意気消沈して訪ねたら、母の言うとおりの方角だった。
私はさらにショックを受け、しばらく母の罵声を聞いていたのでした・・・。
うなだれる私・・・。
もし、この時母と一緒に来ていなければ、私は確実に‘中国残留孤児’になっていたでしょう。
母はこの時のことを「あのまま、どこまでも進んでいたらモンゴルに行くところだったわね」と言って私をからかっては
喜んでいます。


恐るべし日本人
集合時間ギリギリに戻ったにもかかわらず、中ではみなさんお買い物の真っ最中。
私の剣の箱を見つけたガイドの蒋さんが「これは日本には持っていけませんよ」と言い出した。
自分の持ち場の店で買ってもらえなかった腹いせに脅したのだと思います。
「そうですか・・・」ダメもとで持って帰ろうと思っていた私だった。
中国人のお客さんで太極拳をしているという人が「いくらで買った?」と聞いてきた。
「100元でした」というと、「うん、ちょっと高いな。普通は80元くらいだ」と教えてくれた。
でも、最初は240元って言われたんだから、それを思えば善戦したよね・・・?

さて、お茶しながら皆さんのお買い物を眺めていたら、すさまじいのなんのって。
まず、掛け軸ね。一本2万円!それを値切りもせず買ってしまう(驚!)
しかも、一本ではない二本も!〆て4万円。「うっそー(驚!)」
値切ってもいないのに中国人の店主が3万円にまけている。三本買えば5万円にするという。
買わせ上手だ。おじさん夫婦は、即行で三本お買い上げー。「すげー」
緑の屋根の下では‘なんでもない掛け軸’が飛ぶように売れていたのでした・・・。


初めての頤和園
ここは、北京近郊に住む人たちにとっても、休日に遊びにやってくる憩いの場所のようです。
入り口にははやくもカワイイ孫を連れた家族連れが記念写真を撮っている。
最近の中国の子供は「一人っ子政策」のためか可愛がられ過ぎて、家庭内では‘皇帝’の異名を持つようになっている。
塾に習い事は言うに及ばず、太っている子供が目だって多くなった。
あまーいお菓子なんぞを食べさせ放題なのだろう。
「中国の人はスタイルがいい」という印象を持っていた私だったが、それは中国茶に秘訣があると信じていた。
食事にお茶はつきものだし、私もどんなに油の強い中国料理が続こうが、お茶さえあれば胃もたれを起こすことがなかった。
きっと、現代の中国の子供たちはお茶を飲まない食生活をしているのだろう。
欧米風トーストに炭酸飲料・・・コーンフレークだったりして?・・・ゲッ!茶を飲め!茶を!

頤和園は西太后の夏の別荘である。入り口を入ってすぐの所に、麒麟(?)の像があった。
「カッコイイ!」こういうデザインがクール中国ならではである。
「ほんと、カッコイイ・・・♪」と像の周りをグルグル何度も回った私でした。

 カッコいい!入り口の麒麟(?)


園内は広いので全部をくまなく見学していたら、一日あっても足りない。
私たちはガイドさんにくっついて、ダイジェスト版でおいしい所だけを見て回った。
右回りコースは‘昆明湖’沿いに見て回るコースである。
頤和園は西号太后の誕生日を祝った‘排雲殿’とその前に広がる‘昆明湖’が主である。
‘昆明湖’の面積だけで頤和園の4分の3を占めている。
‘昆明湖’はコウモリ(‘福’を意味する)の形をした人工の湖である。
この池の建設のために「海軍の予行練習場にする」と言う名目で海軍費を使ったといいます。
その膨大な支出は清国の後退の一因になったとさえ言われています。

 ‘昆明湖’と‘排雲殿’


池沿いに‘長廊’があります。屋外廊下を散歩しながら優雅に湖を眺めたのでありましょう。
長廊の梁には‘絵’が描いてあります。全部で8000枚とも・・・。二枚と同じ絵はありません。
広大な清国のあらゆる名所が、ここに居ながら見ることができます。
長廊が終わると、西太后の寝室です。寝室の前には‘鶴’の像があります。これまた見事!
そして、最後に‘総大理石の船’・・・贅沢じゃー。全てが贅沢じゃー。

 寝室前の‘鶴’


1997年洛陽
見学終了。私たちはバスの駐車場に向かいます。ガイドさんは近道だと言って、路地に入りました。
ポツリポツリと商店がありますが、基本的には自転車一台がやっと通れるくらいの路地です。
このような所で買い物する人はいないし、してもらっても困るガイドさんは脇目もふらず先を急ぎます。
ひとり団体の最後尾を目を輝かせて歩いていた私は、ほとんど露店に近い商店である‘茶碗’を発見したのです。
その、茶碗は1997年洛陽で買い損ねた母の希望する茶碗にそっくりでした。(1997年洛陽参照)
この後、3年間私は事あるごとに、「茶碗を買ってもらえなかった」と母から責められていたのです。
1997年の旅行中も私は、‘文字の書いてある茶碗’をずーっと探していて、自分の買い物どころじゃなかったくらい。
「あった!」こういう商店では欠けている茶碗でも平気で売り物にしていますから、
丹念に状態の良さそうなのを探しながら「いくらですか?」と聞いてみた。
「5元」「・・・んっ?5元?(たったの?)」日本円にすると70円ぐらいです。
以前、洛陽の土産物店(日本人専用)で2000円くらいした似たような茶碗が、ここではたったの70円。
これが中国のまともな相場なのだ。
それでも私はかわいそうなことをしたもので「3元にしてよ」と交渉。
店のおじさんは「いやだ」と言うので、「わかった、じゃこれください」と素直にお買い上げー。
私はガイドさんに見つからないように、母に「プレゼントがある」と囁き、手渡したのです。
ホテルまで待ちきれず、バスの中でプレゼントを見てしまった母から「よく見つけたわね」と、お褒めの言葉を頂いた。
母は現在も毎日この茶碗でご飯を食べています。

私は私で、駐車場近くの商店でまたも‘剣’を発見!
長城でGETしているのも関わらず、また?と思われるかもしれませんが、
私がここで目をつけたのは持ち手が‘蛇皮’なのでした。
「カッコイイ・・・」持つだけでもいいから抜いて見たかったのですが、
すんでのところで「さあ、行きますよ!(怒!)」とガイドさんが来てしまいました。お買い上げならず。


宮廷料理
頤和園にちなんでなのか、本日の夕飯は宮廷料理です。
以前から食べてみたいと思っていた宮廷菓子‘碗豆黄’(芋で作ったサイコロ大の黄色のお菓子)がでてきた。
ほのかに甘くて想像してた通り美味しかった。

食事の最中に‘宮廷舞踊’の披露があった。
若くてかわいいお姉さんが‘宮廷音楽’にあわせて‘宮廷衣装’で踊ります。
片方の手にハンカチを持っていますが、これを上手に操って指から落とさないように器用に動かしています。
指の表情もきれいです。
私は感心して「上手ね、ハンカチが落ちないように練習するんでしょうね」と、横に座っている
母に話しかけたら「あれは、指にくっつけているのよ」という。よーく見たら本当だった。
ゴムかなんかで中指にくっついていた。それにしても、くっついてないように見せて、
「落とさないように踊ってんのよ」アピールにまんまと騙される私って・・・。
間髪いれず見破ってる母に脱帽。

 くっついてたなんて・・・


夜店見学
‘東安門大街’は夕方4時頃から夜店が立ち並ぶことで有名である。
中国の人は外食が主なので、夜店は夕飯がてら立ち寄る人が大半で食べ物の屋台です。
通りの片側にずらーっと並んだ屋台は‘麺’‘焼鳥’‘シシカバブ’などなどで、
椅子はないので、歩きながら食べたり、立ち食いだったり、何かにおっかかったりして食べます。
容器はプラスチック製に、割り箸なので使い捨てがほとんどですが、中には、陶器で出している店もあります。
その場で返さなければなりません。
とにかく、一晩のうちに出るごみの量も半端じゃないはず。
ちゃんと、ごみ入れが設置されていますが、あっというまに満杯でしょう。
「うどん食べたーい!」と思っても、監視の蒋さん(ガイド)が「ここは、見るだけですよー!」と言ってとめます。
(特に私は蒋さんにマークされていた)
私は、「今度北京に来る時は絶対フリーで来てやるう!」と固く心に誓ったのでした・・・。

 歩きながら食べる。食べたーい!


指をくわえて見ているしかない私は‘サソリ’と‘太ったムシ’の串焼きを発見。
「漢方だ!」精力旺盛、疲労回復!噂には聞いていたが、露店で売られているなんて・・・。
うどん一杯が3〜5元、それにひきかえサソリ一串(3匹)で15元でした。

 サソリに串を刺す店主「ぐさっ!」


バスから降りずに夜店見学に行かない人も大勢いました。
うちの母もバスに残っていましたので、土産話に‘サソリの串焼き’の話をして、気持ち悪がらせる私。
私は機会があれば‘サソリの串焼き’を食べてみたいと思っています。
‘団子ムシ’は勘弁ですけど・・・。


あすは北京市内見学です。楽しみにしている王府井もあります。




3月30日 一夜明けて・・・

 太極拳in北京(2) (左のアンダーバーをクリックしてご覧ください)
きのう約束した場所へ・・・


天安門広場、故宮
母は2度目、私は3度目。
でも、私は気がついたのです。何度来ても、その都度違った見方ができるものだということに・・・。
入り口の‘午門’の壮大さを改めて感じ、故宮の中に流れている川をまともに見るのも今回が初めてといっていいでしょう。
‘太和殿’の屋根に注目するだけの余裕がでてきたのも3回目となればです。

 太和殿の瓦。ひとつひとつ違う形の動物
仙人を先頭に9匹の動物。9という数字は中国で一番縁起のいい数字です。
紫禁城内の建物ごとに動物の数が違うのです。
太和殿は外朝の正殿なので9匹!このことを「仙人と九頭の走獣」といいます。


‘宝物館’に入る際は、靴を履いたまま、‘オレンジのスリッパ’を履かされました。
床を保護するためです。こんなん履かされたの初めてでした。
(詳しくは1994年北京・1997年北京を参照)

 ビニル製でクッションがきいている


昼食で・・・
たぶん‘地壇公園’の中にあるレストランだったと思う。
例の如く、ガイドの蒋さんがディフェンスを固める中、私たちは公園内にある面白そうな物売りを見ることもできず、
レストランに直行させられた。「あとで見ようっと・・・」と思っていました。
今のところはおとなしく食事をするのが先、と。由緒あるレストランらしく、風格がありました。
食事はいつも円卓ですので、いつも私は母の分もいっしょに取り分けてあげます。
青物が回ってきたので、母にも取り分けたのですが、一株が大きかった。
小さく千切れなくて、根元まで一本の株のまま豪快に茹でてあります。
そのままの大きさで味付けされていたのです。私は別に気にもとめていなかったのですが、母は食べづらいと言います。
この菜っ葉で、母は噛み切れずに危うく窒息しそうになったのでした。
私も(1997年北京(2)参照)魚料理で危うく死にそうになった経験があります。
中国での料理は、危険がいっぱい。どうか気をつけて召し上がれ・・・。

食事も一段落して、お手洗いタイム。
私はお手洗いと見せかけて外の売店に行こうと席を立ちました。
北京Tシャツ(胸に大きく‘北京’とか‘長城’とか書いてある)や、中国服、おもちゃ、もちろんチャイナドレスもあります。
おもちゃは乾電池で動くパンダ(とってもかわいい)など、見ていて飽きないものばかり・・・とそこへ、
私にとってのデビルマンこと蒋さん登場!
そして私に向かってこう言い放ったのである!(どう考えても、私は執拗にマークされていた)
「ここで買い物するなら、王府井の時間を少なくしますよ!」
「そんな・・・」 
蒋さんは知っているのである。私が自由に放されるのを待っているという事を・・・。
そして、‘王府井’か‘ここ’かの選択を迫ったのでした。
王府井に軍配をあげるということも知ってる上で・・・。
私には、中国へのツアー旅行はもう限界なのだ・・・と感じた瞬間でもあった。


やっと、王府井・・・
コースに入っている王府井(ワンフーチン)で買い物するつもりだったので、まだお土産らしきは何も買っていなかった。
王府井にある‘北京市百貨大楼’は北京初の老舗百貨店である。
その上、中国資本なので値段も一般的である。私はまず、ここに行こうと考えていた。
ところが、バスが止まったのは‘王府飯店’だった。
ここのショッピングセンターで買い物してくださいと言うのだ。
‘王府飯店’から、王府井までは直線なので徒歩5分くらい。急げば行けるには行ける。
「デビルめー!」時間は45分。「たったの45分?」 
行き帰りを考えたら正味30分くらいのものだ。「おのれー!デビルの奴うー・・・
まあ、行くしかない!自由時間に違いないのだから、どこに行こうが構わないはずだ。私は走った。

まずは‘北京市百貨大楼’で酒を物色。先日、日本で‘紹興酒’飲み比べをした。
8年物と10年物のあまりの違いに驚いた私は、是非、10年物を手に入れたかった。
ところが意外なことに北京市百貨大楼ともあろう百貨店に10年物がないと言う。
酒は他を当たることにして、次はお菓子!
中国のお菓子ははずれが多い。今まで挑戦した数々のお菓子であたりだったのは、
‘サンザシ’のスライスになった健康食品と、香港で買った‘ピーナツ’の柔らかビスケット
(生産は中国の会社)くらいなものだ。ここまでくると、‘大博打(おおばくち)’なのである。
「・・・北京特産・・・狭餅(ジャーピン)・・・?」原料は・・・飴、蜂蜜・・・おいしいのかなあ?
半信半疑でいろんな味を買ってきてみた。
狭餅(ジャーピン)は白粉を薄くプレープの様に焼いたものに、木の実などをベースにした味の
ジャムが挟んであるお菓子です。半年くらい日持ちもします。
‘狭(ジャー)’は挟むという意味で、‘餅(ピン)’はせんべいの意味です。
日本にて・・・
‘挟餅’はお土産に配ったりしたのですが、もちろん自分でも食しました。以来、私の大好物になりました。
特別どうと言うことない味ですが、上品な感じの甘酸っぱいジャムがなんとなく好きです。
北京に行ったら‘北京名産’ジャーピンをお試しあれ。お薦めです。
そして、中国でも地方からの御のぼりさんは‘北京名産’ジャーピンを買って帰るようです。
(2002年北京でジャーピンをたんまり買った人を何人も見かけた)

あれこれ見ている時間などありません。紹興酒を求めて、‘緑屋百貨店’に駆け込みました。
北京市百貨大楼に比べて客がいません・・・でも、こちらには10年物がしっかりございました!
「二本ください!」‘古越龍山’(陳10年)。700mlが2本、こりゃ重い!
ここでも、お菓子を物色。「どれが美味しいですか?」と聞いてみたところ、
‘白くて細ーい麺をグルグル巻きにして、その上にゴマがふりかけてあるお菓子’を勧められた
「んじゃ、それふたつ下さい」
日本にて・・・
紹興酒は申し分ありません。砂糖なしで十分美味しい、文句のつけようがありませんでした。
2本とも私ひとりで飲んでしまいました・・・。
(美味しくない紹興酒は、氷砂糖またはコーヒーシュガー(飴色の)でも入れないととても飲めたものではありません。
冷でなどもってもほかです)
お菓子の方は、私はまずまずイケルかなと思ったのですが、周りの反応は不評でした。
ぼろぼろこぼれて、おまけに歯にくっついたりして食べにくかったのです。
(‘緑屋百貨店’は韓国資本のデパートでした。2002年北京に行った時はなくなってました)

とにかく重い!
もう時間だし・・・短すぎるよー!おのれデビルー・・・
王府飯店までの直線も‘長屋の商店街’である。
母はお茶店で‘黄山毛峯’が欲しいと言うので、寄ってみました。
3月下旬、お茶所雲南省は新茶の季節。店内には新茶のビンが出揃っていました。
中国茶は種類が豊富なので、‘黄山毛峯’といっても数種類あるのでした。‘金毛’‘銀毛’etc・・・
私は、ビンにばかり気をとられていたのですが、母が「あの大袋2袋でいいわよ、
じゃ先行ってるわよ」と言ったきり店を出てしまった。
どう考えても、新茶の季節に‘大袋’って・・・と思いましたが、母の言う通りおつかいした私。
あれでもない、これでもないと散々ビンを出してもらって計り売りで新茶を買おうと思っていた私は、
なんだかバツが悪かったが仕方ない・・・。
日本にて・・・
「だから言ったじゃない・・・新茶の季節だっていうのに、なしてわざわざ大袋だなんて・・・」
美味しくないお茶ほど処分に困るものはありません。しかも、黄山毛峯は緑茶です。
黒茶(プーアール、ウーロンなど)のように何年も持つものではありません。

最後の買い物は私の中国服(今回2着目)でした。
紫にオレンジの龍が全体に刺繍されている上下を発見。柄がよかった。
「あれ見せてください」下ろしてもらうとサイズがXLだった。
「大きすぎます。もっと小さいサイズはありますか?」
ごそごそ探して出てきたのは、まったく違う柄でした。
「あの柄で、小さいのはありませんか?」
ごそごそ・・・「ありません、これかわいいよ」(全然柄が違うのを指して)
いいや!あの龍の柄が好きなのだ。「じゃ、いりません(1着あるので余裕だった)」
そういうと、お姉さんはXLにもかかわらず「これ、大きくないよ」と言いだしたではないか(笑)
「私には大きいですよ!大きいに決まってるじゃないか!」と私。
「いいや、これはゆったり着るから大きくないですよ」と言うお姉さん。
聞いてるうちに「(そうなのか?)」と思えてきたカモの私。ついその気になってしまって・・・
「だったら、まけてくれる?」と240元を160元まで値切って買ってしまった。
日本にて・・・
ブカブカでした。どうにもこうにも大きすぎました。全体的に小さくしないと着れたものではありません。
無駄遣いでした・・・。

まだまだ買い足りません。・・・それにしても重いよー(泣)


他人の空似
ダッシュで時間すれすれに戻って来た私にデビル蒋さんは「お酒ですか?」とチェックを怠らない。
「これから買えたのに!(怒)」と。自分の手柄にならない買い物はして欲しくないのです。
王府飯店で買い物中の方々はまだバスに戻っていませんでした。
「なんだ、時間厳守じゃないんだ・・・」と思いつつ、デビルを恨めしく思う私でした。

ふと見ると外で、ドライバーさんがタバコをふかしていました。
このドライバーさんが、1997年の北京ガイドの常さん(1997年note参照)にそっくりだった。
もしかしたら、弟さんかもしれない。私は、バスを降りて思い切って話しかけてみました。
「辛苦了!(お疲れ様です)お名前はなんとおっしゃいますか?」違う名字だった。
「5年前北京に来た時のガイドさんが、あなたと顔が似てるのです。お兄さんはいますか?」
「います。でも、ガイドではなくてドライバーです」
「そうですか、では他人の空似でしたね」などと楽しく話しているところへデビルが・・・。
「この人、中国語上手ですよ」とドライバーさんがばらしてしまった。せっかく、隠してたのに・・・。
でも、中国語を誉められたのはすごく嬉しかった。


大好きな‘天壇’
私は2度目(1994年北京参照)ですが、母は初めての‘天壇公園’です。
前回来た時とは反対側から入りました。裏からです。
公園の広大な芝生で凧揚げの光景が見られました。
見てる私の方も気分が晴れ晴れする光景でした。
今回、天壇の‘祈願壇’には案内されないそうです。「本当はあそこが‘天壇’の心臓なのに・・・」
私は、母に3層ステージを見て欲しかったのですが、‘祈年殿’からは距離がありますので断念。
代わりに解説を・・・というか1994年の感動を話して聞かせたのですが、説明が下手だったせいか
母の反応はいまいちでした・・・。


宇宙からやってきた円盤の様にみえる。重厚感がハンパありません


私と母は時間まで‘祈年殿’の両脇にある博物館(向かい合わせで2棟あります)を丹念に見ておりました。
ここを見るのは私も初めてです。館内には、古代の楽器や楽譜、祈願の際に使用した道具などが多数展示されており、
大変興味深いものでした。
天壇に行かれた方は、メインステージ‘祈願壇’と‘博物館’にも足をお運びください。
見るべきものが多数ございます。
北京市内には‘天壇公園’の他にも‘地壇’‘日壇’‘月壇’いった公園があります。
北京が小宇宙を形成しているかのようではありませんか?


ガイドの蒋さん
ここが最後の観光でした。みんな歩き疲れていました。
それを察した蒋さんは親切に遊覧車を手配してくれました。本当に気がきく良いガイドさんです。
私にはディフェンスが厳しかったけれど、それは仕事熱心な彼の性格さゆえでしょう。
それくらい、私にはわかっています。本当は仕事熱心な親切なガイドさんなんです。
彼は、故宮でも有料トイレの代金を、行きたい人全員分ポケットマネーから出していました。
たいした額ではないにしろ、日本人はトイレが有料だなどど思わないものです。彼が、支払っていたのを私は知ってました。
天壇でだって、彼は遊覧車代をポケットマネーから出していました。
まあ、みんなよくお買い物したものねえ、それくらいの出費はなんでもなかったはずです。
それらは旅行社に請求するのだとしても、彼の心遣いが嬉しいではありませんか。
こうして、予定外の出費を自ら支払ったガイドさんは初めてです。
私だけでなく、みんな親切で良いガイドさんだと好評の蒋さんでした。


梨園
その親切な蒋さんが「みなさーん今晩、京劇を観ませんか?」とオプションを提案してくれた。
「いきたーい♪」
‘前門飯店’内にある‘梨園劇場’で、ひとり3000円だという。
日本で観ることを思えば安いものである。私は、これまで京劇を観たことがなかった。
初めての京劇が本場北京で観れるとあっては行かない手はない。
(昨晩のオプションは‘足ツボマッサージ’だったが、私も母も行かなかった)

開始ぎりぎりに到着。
前の方の席はテーブル席になっていて、お茶がでるようだ。
真ん中の横通路を挟んで、前に座席が5列ほどあって、横通路を挟んで後ろが
徐々に高くなっていく座席構成。私たちにあてがわれたゾーンは最後尾の端の方で、最悪だった。
思えば3000円は暴利だった。この座席なら30元(500円)がいいところだろう。
まあ、仕方ない。もう、幕が開いたというのにワヤワヤと入ってきた集団がいた。
しかもワアワア騒いでうるさい。欧米人である。
おまえらにはマナーっつうもんがないのか(怒!)


最初の演目は「三岔口」
京劇のアクロバット的要素と、コミカルさを持った小作品。
頭のてっぺんからつま先まで芸術的な衣装に身をつつみ、その動きは‘静と動’の絶妙なリズムで構成されている。
言葉など理解できなくても、見て十分楽しめる作品だ。
ピタッ!と静止した時のカッコよさといったら!
「これが京劇か・・・」と唸るしかなかった。台詞あり、歌あり、踊りあり、アクションあり、歴史あり、文学あり、涙あり、
道化あり・・・。正に総合芸術だ。素晴らしい(感激!)西洋にはオペラがあるし、日本にも歌舞伎がある。
京劇は「Chinese opera」歌舞伎は「Japanese opera」どちらも古典。

 「三岔口」の一場面。ピタッ!決まった瞬間


1時間10分のうちに「三岔口」他2作品の全3作品が上演された。
この間私はずっと唸りっぱなしだった。
演目名はわからないが(たぶん「白蛇伝」の中の一部分「盗草」だと思う)で、投げつけられる槍を、
持っている棒と足で蹴って撥ね返すアクションがあった。
無数の槍を一本残らず鮮やかに返す場面は、息をもつかせないものでした。
足で蹴るといっても、足首、向う脛、後ろで蹴り上げる、パッと飛んで開いた両足で2本を同時に空中で蹴る・・・
蹴って、正確に投げた相手に返す・・・。一度も失敗しない。的確なパス・・・。
ワールドカップに出場させたいほどの腕前だ。

 赤い服の女性が槍返しの名手


もう一作品は、アクションなしの物語だった。
やはり、京劇の醍醐味は、華麗なアクションではなかろうか・・・
言葉が理解できない私たちにはアクションのほうがずっと楽しい。
中国の京劇ファンは‘歌のうまさ’で役者を贔屓をするらしいのです。
日本でいう、浄瑠璃、常磐津のような感じでしょうか?
「あの役者も声が落ちた」とかいう批評をするみたいです・・・。
歌がなければ京劇ではなくて、ただの‘雑技’になってしまうものね。

この時を境に、すっかり京劇ファンになってしまった私は、以来日本でも京劇を見る機会がありました。
2列目の席を手に入れて母と出かけました。
日本は劇場といっても京劇専用ではないので、逆に近すぎて失敗してしまいました。
私が日本で見た「孫悟空」は‘北京京劇院’の若手俳優でしたが、若いのに歌も上手だったし、
表情もかわいい子猿といった感じでよかった。将来が楽しみな悟空だった。
他に、「秋江」のような技術ものと、「盗庫銀」のアクションものと全3作品を上演。
若手のホープにとって海外公演は今後の糧となるいい勉強の場なのだろう。
一京劇ファンとして、伝統をしっかり受け継いで欲しいと願うばかりである。

余談ですが、‘中国京劇院’には「孫悟空」の名手、‘李光’さんがいます。
彼は国家一級俳優であり、中国京劇界の名優である。しかし、彼も今や60代。ガンバレ!若手!


最後に
私は3度目の北京だった。
毎回違った顔の北京を見てきて、中国の発展ぶりを少し淋しく思っている。
改革解放政策によるものだろう、急速な発展ぶりは政策の成功を意味しているわけだから、
私が淋しいなどど言える立場にいないのはわかっているが、
向かっている先のことを想像して悲しく思ってしまうのは私だけだろうか・・・?
高層ビルが建設され、胡同(フートン)の住まいからマンション住まいへ・・・
自転車から高級車通勤へ・・・器が変わればそれに伴って人の価値観もやがて変わっていくだろう。
「うちも、自家用車が買えるようにならねば」とか、「マンションに越せるようにならなければ」とか。
必要なのは「お金」が、いつしか重要なのは「お金」という感覚に変わっていく・・・。
恐ろしいことだ・・・。人の内面が変わったら、そこはもはや私にとっての‘中国’はなくなってしまう。

もうひとつ私が怖いのは、「言葉」である。
若い中国人はみんな英語が堪能だ。「言葉」はバカにできない、と私は思っている。
言葉は単に「道具」だけではにとどまらない。
その国の言葉ができるということは、「概念」を切り替えるという事につながるからだ。
恐ろしいことだ・・・知らず知らずの内に、中国人がアメリカ人になってしまうなんて・・・。

私は、この先中国にどんなに落胆させられようと、中国人に裏切られることがあろうと
中国を嫌いにはなれないだろう。(と思う)「我一定再去中国!」
でも、アメリカ人化した中国人はいただけませんて・・・。



2000年北京完


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vol.31