6.生活
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住居
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バスケット
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馬との関わり
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バッファローの消滅
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<住居>
ティーピーだけが住まいではない
1.ティーピー(大平原)
部族によって、住まいも衣装も生活様式も違う。
だがインディアンの代表的住まいは大きく‘ウィグワム’と‘ティーピー’のふたつだろう。
‘ティーピー’は主に、狩猟をしている部族に多く、バファローの移動とともに夏と冬の場所が変わる部族に
多く見られます。
地域的には平原から、北西部にかけてです。
‘ティーピー’とはラコタの言葉に由来し、「住むために使う」という意味があります。
(ティ=住む、ピ=〜に使う)
大きさについて
馬が渡米する以前は底部の直径が8フィート(約2.5m)が標準だった。
馬が普及した後も10〜15フィート(3〜4.5m)ものが多かった。
馬がいなかった頃は使い捨て住居でしたので、毎年、新しい木を狩って建てていたのです。
立派なティーピーほど先端が高く突出しているものなのだ!
ところが、白人がやって来てからというもの、むやみに樹木を伐採するものだから新しい樹木を狩ることも困難になり、
使い回ししているため(当時の運搬方法では移動のたびに木が磨り減ってしまう)
後年は先端から木が出ないみすぼらしい‘ティーピー’住まいを余儀なくされた。
‘ティーピー’の材料は長くまっすぐに伸びた若いロッジボール松だった。
松がない場合はポプラやモミの木、トウヒ、杉を用いた。
3本柱を土台の骨組みにした場合、計15本の柱が必要になるし、4本柱を土台の骨組みにした場合、
計16本の柱が必要になる。
覆いにはバファローの皮が使われた。
およそ直径5mの‘ティーピー’には14頭分の皮が必要になる。
その皮をなめすのは女の仕事だった。
雄より雌の皮の方が手間がかからないので重宝された。
覆いは2年に一度取り替える。
古いティーピーは細かく裁断し、さまざまなものに(モカシン靴や普段着など)リサイクルしていた。
通常東向きに建てられ、北側が男、南側が女が普通だった。(中で火が焚ける構造なので家事の利便性から)
無地が普通だが、稀に絵柄が描かれることもあった。
図案は夢から影響を受けたユニークなもの、神聖な動物のものがモチーフになった。
2.アース・ロッジ(平原/ポー二ー族、アリカラ族、マンダン族)
地面を掘り下げて床とし、木材で柱と屋根の骨組みを組んで、全体に厚く土(木で骨組みを作り草でおおった)を
かぶせたドーム型住まいである。直径およそ15m、高さは3mもあった。
一棟に40人が暮らせるほか、馬を収容することもできた。
3.グラス・ロッジ(南方平原/ウィチタ族)
土の代わりに草で覆った家。
4.ウィグワム(東部/オジブワ族、アルゴンキン族、アブナキ族)
平原インディアンを除くほとんどの部族は定住し、とうもろこしの栽培や自然の木の実などを採取したり、
川魚を漁して生活していた。
だから、移動しない「住まい」である‘ウィグワム’に住んでいた。
海岸に住む部族の中には春や夏は海辺で暮らし、冬になるとシカやビーバーを求めて平原に移ることもあった。
‘ウィグワム’(地面にお碗を伏せた土まんじゅうのような竪穴式)とは細い若木を地面に差してアーチ型に曲げ、
先端を樹皮で束ねて作った、東屋のような楕円形の建物である。
煙を逃がすための通気孔を残して屋根を樹皮ですっかり覆い、内側に何色にも染めたイグサのゴザを張る。
また、天井の通気孔に届くほどの長い杭を床の中央に1本立てて、適当な高さに竿を渡して煮炊きができるように
する。火が燃え移らぬように、杭の根元には石を敷く。
扉は南と北にふたつある。
5.ロングハウス(北東部森林地帯/イロコイ族)
気の竿で枠組みを作り、屋根と壁には平らにのした楡の樹皮を張り、屋根は切妻またはかまぼこ型。
出入り口は両端にあり、わかりやすく言うとビニールハウスのような外形である。
内部は中央が通路になっており、両側には高さ50cmの棚が壁に沿って設けられていた。
この棚に毛皮を敷いて寝起きしたのである。寝棚の下は物置に使った。
6.チッキー(湿地地帯/セミノール族)
木で柱と切妻の屋根を組み、ヤシの葉で屋根を葺いたもの。壁はない。
地面から離して床を設ける、高床式住居。
7.プエブロ(南西部/ホピ族、ズー二ー族、タオス族)
石と日干し煉瓦(アドビ)で造る。プエブロはスペイン語で「村」という意味だ。
壁の厚さは60cmから120cmあり、外気を遮断するので、寒暖の差が大きい砂漠地帯に適している。
平屋建てもあれば、2階、3階、さらには6階建てもある。
階が上がるにつれて壁が引っ込んでいく。
昔は要塞の要素も強く、1階に入り口はなく、はしごで天井から降りた。
2階、3階へも内部に階段はなく、ベランダからはしごで登る。
8.ホーガン(南西部/ナヴァホ族)
丸太でティーピーのような骨組みを作り、それに泥を塗りつけたもの。
9.ウィキアップ(南西部/アパッチ族)
ウィグワムの草葺タイプ。
10.プランクハウス(北太平洋沿岸)
コースト山脈に太平洋の湿った空気がぶつかり、大量の雨を降らす。
このような雨と温暖な気候によって樹木がよく育ち、モミやトウヒシダーなどの大木に恵まれた。
これらの木を製材して、堅固な家を建てた。
村の家々は、戸口を海岸に向けて一列にズラリと並んでいたのです。
そして家の前には、その家の紋章であるトーテムポールが立てられていたのだ。
<バスケット>
ラグ、銀細工、セレモニーバスケット、砂絵のなかで一番大切なものは?
という問いに全員が間違いなく「これだ」と答えるもの、それがセレモニーバスケットだ。
決して欠かせないものなのだ。
先祖伝来のものも含めて、多い家庭になると10から20持っていることもある。
結婚式では新婦方が用意するのだが、式が終わると新郎方の親がこれを持って帰る。
したがって男の子が多い家庭ほど、これが増えていくことになる。
ユタ州南部にいたペイユート族から教わったという説もある。
表面にピニヨンという松からとったヤニが塗られ水漏れを防いでいる。
これで飲む水は美味しいという。
(ピ二ヨンの実を炒ったピ二ヨンコーヒーもあるくらいだから)
バスケットの作り方は部族によって違う。
プエブロ種族はユッカを多用するし、ベア・グラスと称する長いススキのような葉の植物を使う。
ナバホの場合、スーマックという香りのする潅木の幹を使う。おそらくハゼの一種なのだろう。
ナバホ・アパッチ型、トホノ・オオダム型、ウエスタン・アパッチ型、プエブロ型に分かれる。
ホピだけはこれとは別に独自の畳織りしたバスケットを作っている。
ホピでは9月末にバスケット・ダンスを行っている。
バスケット・ダンスとは、儀礼用マンタを羽織った既婚の女性たちが、
収穫によって満たされるべきバスケットと手に踊り、最後にそのバスケットを贈り物として観客に投げ与える祭りで
ある。それぞれ伝統的な意匠を編みこんだ極彩色のバスケットで、縦横に編みこまれていたり、コイル状に
巻かれていたり・・・太陽、聖なる鳥、スパロウ・ホークなどが編みこまれている。
ホピは歴史的に見ても、他の部族と違う独自性がある。
ホピの神話によれば、太平洋を島づたいにやってきたという彼らの移住伝説を裏付けているように思う。
紀元前300年頃南部にホホカム、中部にモゴヨン、北部にやや遅れてシナグワおよびアナサジと呼ばれる文化が
出現するが、このアナサジ文化またはアナサジ人が、ホピの直接の祖先であると考えられている。
いづれの文化もトウモロコシや豆類の農耕を基本とし、それに必要な道具をつくり、家を建て、村を営んでいたが、
アナサジが他と異なっていたのは、別名バスケット・メーカーとも呼ばれたように、
今日のホピの籠作りと同じやり方の籠を作っていた点と、住居が石造りの2階、3階建てという集合住宅を
持っていた点である。
平原インディアンと決定的に違うのは定住していたという点であろう。
これらの遺跡にベタタキン、ウパトキ、キート・シール、キャニオン・デ・シェリー、メサ・ヴェルデなどがある。
(2005年6月記)
<馬との関わり>
当初アメリカ大陸に馬は存在しませんでした。
西暦711年、北アフリカのイスラム国家のムーア人がキリスト国家のスペインに攻め込んだ。
この時ムー人によって、気性の荒い「バーバリ馬」がスペインに持ち込まれた。
やがて、足の速いスペインの「アンダルシア馬」と交じり合い、駿馬「スパニッシュ・バーバリ」となる。
イタリア人航海士コロンブスはインドへ香辛料を求めるための西回りを発見するため、1492年旅立った。
そして、偶然、新大陸を発見してしまったのだ!
(西欧人が知らなかっただけで、新大陸でもなんでもないのだが・・・)
それからというもの、未開の楽園に髭をたくわえた幾人もの如何わしい外国人と、ヨーロッパ社会の病弊を
持ち込んだ・・・。
1495年、入植者がヨーロッパの物資と馬を持ち込んだ。
馬を手にするまで、インディアンの移動は歩きだったし、運搬手段は犬だった。
ティピーの運搬も犬が引いていた。馬に乗ることで狩りの効率も格段に上がった。
インディアンの馬上文化の最盛期は1750から1875年といわれる。
<バッファローの消滅>
18世紀までは北米大陸に5千万頭以上生息していたと推測されるが19世紀にはいってから強烈な速度で
減少していった。白人による組織的大量殺戮が原因である。
特に1871年皮革が商業的に利用されるようになってからは、年間3百万頭もが殺された。
保護しようとする動きもあったが、政府や軍部はインディアンの食料を断ってその屈服を迫るという戦略的観点から
これに反対した。
1883年にはほぼ絶滅。白人への抵抗の終焉を意味した。
バッファローは狼と共生していた。
年をとったバッファローや、病気のバッファローを狼が食べることによってバッファローの数は
一定以上増えないように調整されていたのである。また、死体は大地の養分として還っていった。
ところが、1870年頃から、白人は皮を取るためだけに乱獲し、死骸は腐り始めた。
また、狼はバッファローが減ったことで、入植者が飼っている牛を襲い始めた。
ウルファー(狼の狩人)は毒入り肉を平原に撒き散らし、狼ばかりでなく他のウサギやリスなどの小動物、
インディアンが飼っていた犬まで巻き添えを食って死んだ。
新しくやってきた家畜の病気が拍車をかけ、バッファローの消滅にとどめをさした。
インディアンが先祖伝来守り続けてきた生活様式も失われ、種族全体の飢餓を言い渡された。
そのため、これまで白人に恨みのない種族までが白人を恨むようになっていったのだ。
バッファローは食料というにとどまらず、住居も、着る物も、燃料さえも与えてくれる動物だった。
また、信仰とも深く結びついて、バッファローの絶滅はインディアンの絶滅を意味した。
アメリカ横断鉄道の建設によってその領域を断ったことが致命的だったろう・・・
建設に対抗して戦った部族もあったが、白人の武力の前に成す術もなかった。
(2004年12月記)
7.ファッション
※このページの内容に一部書籍からの引用があります。
それらの資料は「11.書籍」にて紹介させていただいてます。
他サイトからの転写はありません。
vol.12
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