1996年 フィレンツェ

第1回 1996年12月14日


イタリア滞在4日目 フィレンツエ

ウフィッツィ美術館 (別紙参照)
ルネサンスの都フィレンツエは芸術の都でもある。絵画、彫刻の名作がてんこもり。
私は、絵を見るのも大好きなんである。一頃は油絵をサラッと習ったこともあるし、その昔は美術部を作っちゃった
こともある。
でもやっぱりへたに描きはじめて悩むより、天下の名品を見るほうが、ずっと心に迫るものがあって気分がいいので
ある。だから、フィレンツエは心待ちにしていた土地なのです。

早朝からウフィッツィ美術館へ。シニョーリア広場はまだ暗いし、ひとっこ一人いない。
添乗員のマキノ曰く「早くから並ばないと、なかなか入れない」と。さすが、これは当たっていた!
私たちは早くから並んだので前の方だったが、時間が経つにつれ行列は大変な長蛇となった。
それでもまだ開館時間にならない・・・

1時間は待たねばならないという。
マキノ添乗員がいるので、この間Cさんとウフィッツィ脇のBARに行ってお茶した。
朝も早いし、カップチーノはヴェニスで飲んだから(ヴェニス参照)‘エスプレッソ’を飲もうとした。
ところが、頭がボケていたのか間違って「カップチーノください」と言ってしまったのだ。
「まあ、いいか」と飲んでみたら、これがまたおいしいの!ヴェニスのよりずっと!
「これぞカップチーノだ!」と納得した私でした。まさに怪我の功名。

ここはルネサンス。目の前には、可憐なボッティチェリ、チャーミングなフィリッポリッピ、鬼才ラファエロ、
天才ダ・ヴィンチ、巨匠ミケランジェロ・・・もう、めじろおし。
「一枚でいいから部屋に欲しいなあ・・・」と考えながら進む・・・
シエナ派のジョットやチマブーエも豊富だが私の趣味ではない。
だから「これはもらってもいらないや」といらない心配をしながら進む・・・

ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」「春」(別紙参照)の大作は言うに及ばず、
ダ・ヴィンチの「受胎告知」(別紙参照)がすん〜ばらしかった。
受胎を告げにきた天使の翼。「本物?」
さすがダ・ヴィンチ、解剖学の勉強もしていただけのことはある。妥協を許さない描写はお見事!としか
言いようがない。
名画はいつまで見てても飽きないものです。そしていつの時代でも「いいもの」は「いいもの」で残り続けるものです。
「いいもの」でないと残れない。その為には時間が必要で、歴史や伝統というのはつまるところ時間が
決めてくれることでもあるのでしょう。

現在、戦利品としてフランス、イギリスに多くのイタリア芸術の品々が出ています。
イタリアの人がルーブルでモナリザを前にしては、誰はばからず「これはウチのダ・ヴィンチだ」
と、大声で言っているといいます。「これも」「これもだ」と、言っているに違いありません。
人間の歴史の財産である前に「イタリアの誇り」であることを忘れてはなりませんし、
本来、作品が生まれた土地にあるべきものでしょう。
ピカソの「ゲルニカ」だってそうでしょう?アー、生意気なこと言っちゃいましたね。

私は、名人絵師たちの中でもミケランジェロが贔屓です。
彼の作品にはラファエロの繊細さと違って、重量感というか、厳しさというか、なにか力強さを感じるからです。
彼は、もともと彫刻が専門で、本人も「彫刻家(当時は職人だけど)」であるといって、絵は描きたがらなかった。
やもうえず描いていた・・・それでも、あれだけの作品が描けるなんて、出来る人にはなにやらせても出来るもの
なのね・・・
ウフィッツィには、「聖家族」があります。絵ばかりでなく額縁も彼の手による作品です。


ミケランジェロの丘
市内からすこし離れた高台です。フィレンツェ市内が一望できます。
なんで「ミケランジェロの丘」かって?たぶん彼のコピーの彫刻があるからじゃないかしら。


DUOMO と ジョットの鐘楼

 街全体が美術館

「花の聖母寺院」(1296〜1310)フィレンツェを象徴する寺院。「鐘楼」(1359年完成)
ここで放されて、午後は「待ってましたFREE TIME!」


サン・マルコ美術館 (別紙参照)
私のリクエストで行くことになりました。
フラ・アンジェリコ(彼自身僧侶だった)の「受胎告知」(別紙参照)があるはずだからです。
教会の隣が美術館になっています。階段を上がってすぐの壁にそれはありました。
だから、階段の途中で見た方が見やすい位置なのです。
(上りきると近すぎるので)なんとも初々しいマリアが、畏れと覚悟のいりまじった表情で、天使のお告げをじっと
聞いている・・・

アンジェリコの「受胎告知」はマリアが可憐で儚い感じが印象的である。
ウフィツィ美術館で見たダ・ヴィンチの「受胎告知」はその精密さに度肝を抜かれた・・・
他にも数多くの画家がこのモチーフで作品を残している。
同じように「聖母子」「最後の晩餐」も画家によって構図もタッチも様々だ。見比べてみるのもまた楽しい。

ここは修道僧たちの個室に分かれていて、それぞれの部屋にも絵が描いてある。
「こういう所だったんだ・・・」と一通り見ていると、他は全部1Kなのに「ここは2LDKだ」という所があった。
Cさんとも「ここだけ広いよね。祭壇も作り付けであるし・・・誰か偉い人でもいたのかしら?」と語っていた。
帰ってきて調べてみたら‘サヴォナロ−ラ’がいたらしい。
サヴォナロ−ラは、フィレンツェを滅亡に導いたという罪でシニョーリア広場で処刑された修道士である。
「そうだったんだあ・・・サン・マルコ教会にいたんだ・・・知らなかったよ・・・」

 ここはサヴォナロ−ラゆかりの修道院でもある


ミケランジェロの家
ここも、私のリクエストで行くことになりました。
サン・マルコ教会からミケランジェロの傑作「ダヴィデ像」のある‘アッカデミア美術館’はその通り道にあるのですが、
コピーで見たので素通りして(時間がない)ミケランジェロの家を目指した。ところがなかなか見つからない。
気がつけば裏道。
番地をたどって行ってもこの家だけなかったりで・・・。通りがかりの美人の親子に聞いてみた。
イタリア語で返ってくる。
「?」親切に途中まで送ってくれてめでたくGET!が、閉まっていた・・・あ〜れ〜。でもなぜか達成感はあった。


ランチタイム
ミケランジェロの家GETで疲労していた我々は(振り回されたCさんはもっと大変)昼食の場を求めてレストランを
探した。おもてにメニュ−が出てて、見たところパスタ、メイン、サラダを選んでいく形式のランチらしい。
「よっしゃ!」ここに決まり!(ここでヴェローナの続きとなる悲劇は起きた・・・)

メニューを読むだけで私は既に息切れがしていた・・・(イタリア語の単語はやたら長い)
読み終わる前にお兄さんが注文をとりに来てしまった。聞いたほうが早いと思い、
私「この中で魚の皿はどれですか?」
兄「ない」
私「えっ!全部肉なの?」
兄「そうだ」
私「全部?(まさか)」
兄「(しつこいな)水曜と土曜だけが魚なんだ」
私「(・・・えー、どうしよう。まさか全部とはしたり)」
兄「どうだ、トマトとモッツァレラは」
私「モッツァレラ!(ヴェローナをおもいだし)NO!」 
兄「OH!NOモッツァレラか・・・じゃあハムはどうだ」
私「ハムはなおさらダメだ」
兄「なんだって!こいつ、お手上げだよ!」と、メモを投げ出し一度厨房へたちさる。
私「(怒ってるよー、どうしたらいいんだ・・・)」店内に緊張した空気が走る・・・
幸い時間がずれていたので私たちの他に、イタリアの地方から遊びに来たらしい若い女学生4人組だけだったが。

そこへ厨房と相談してきたらしいお兄さんが戻ってきて、兄「じゃあ、特別だぞ!サラダを2皿にしろ」
私「ウーン、じゃあそうする。豆とほうれん草で」店「よし!」

ようやくCさんの番になり、Cさんは手際よく「これとこれとこれ」と決めてしまった。
私は日本でも種類の多いメニューからは決められなくて、もたもた、グズグズになってしまう・・・

一息つく。ワインを飲みながら落ち着いて考えていたら(まだ考えとったのかい!)気が変わった。
私「すいません、やっぱモッツァレラにします」  
兄「ウン、そのほうがいい。じゃサラダはどうする」
私「NO BEENS」(ほうれん草だけ)
兄「よし、なかなかナイスな選択だ!」

どこに行っても私はこんな調子である。
旅行先で見たいと思ったものは見つかるまで頑なにがんばってしまうし・・・
食事となると妥協できなくなる・・・頑固というか・・・しつこいというか・・・融通が利かないというか・・・
(中にはあっさり決めてしまう事もたくさんあるんですけどね)Cさんも呆れただろう、いや諦めてくれていたんだろう。

出てきたモッツァレラはしょっぱくはなかったが、冷奴を固くしたような、何の味もしないものだった。
おまけにトマトまで固かった。
しかーし!ほうれん草のサラダは絶品だった。日本で食べることは絶対にできない代物。
見た目は「ワカメサラダ」それも、茹ですぎて茶色になってクタクタになったワカメ。
オリーブオイルが効いている。食べると、これが very,very good taste!!
Cさんは「ここでもミラノ風カツレツだ」とちょっぴり後悔の様子だった。
だってどんなものか出て来るまで分かんないんだもんね。博打だもん(笑)

 こんな風景のところにレストランはあった・・・


酔っ払い‘ベッキオ橋’を渡るの巻
疲れているところへ飲んだせいか、かなり酔った。次に向かうは‘ピッティ宮’である。
‘ピッティ宮’に行くにはベッキオ橋を渡らねばならない。
この橋はプッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」に登場してたので名前だけは知っていた。
オペラもイタリアオペラが贔屓の私です。フランス語オペラ、ドイツ語オペラ・・・ありますが、
やはりオペラはイタリア語がシックリくるのです。
ミュージカルにはトンと興味が湧きませんが、オペラは大好き。

1345年建立、16世紀半ば過ぎにウフィッツィとピッティ宮を結ぶ廊下が橋の上に作られた。
現在は屋根はないが、橋の両側に商店が立ち並び、まるで橋じゃなくて普通の道のようである。
「橋なのにこんなに人が乗っかって、建物までびっしり建って、積載荷重は大丈夫なのだろうか。」と
心配になるほどだった。
「いくら石造とはいえ、それだけに固定荷重だってすごいでしょう?」
商店のほとんどは‘金製品’を扱っている。貴金属に興味のない私は素通り・・・途中、商店がきれてアルノ川が
覗けた。記念に写真を撮ろうとする私の両側にはアツアツカップルが・・・


酔っ払い‘ピッティ宮殿’に登場の巻

 メディチ家は元々薬を扱う商人だった。その紋章の6つの玉は薬を表している。

メディチ家の美術品が収められている。私はまだ酔っ払いのオヤジ状態・・・着いたらさっきのレストランにいた
4人組もここに来ていた。
「旅行だったんだ・・・」と思った。
入り口が見つけられずにウロウロしてしまった。結局通りすがりの人に聞くハメになった。
ねえCさん、分りずらい入り口だったよね。酔ってるせいじゃないよね?

 ピッティ宮の中庭。ここで入り口がわからずウロウロ・・・


中は、もうたくさんありすぎて、どれ見ても同じに見えてきた・・・見ても見ても終わらない・・・
これらメディチ家のコレクションは子孫が途絶えた(本当は直系が存在していた)という理由で
オーストリアのハプスブルク家が引き継ぐことになりました。
もし私がこの遺産の所有者で、先祖代々受け継いだものを自分の死後全部他所の家に持っていかれてしまうと
決まってしまったら、死んでも死にきれないだろう。責任を感じて茫然自失の毎日だろう。
死後も祟って出てくるかもしれない。
とても耐えられない・・・遺産などなくても、私で子孫が絶えてなくなるのだけは阻止したいものだ。

当時のハプスブルク家のトップはマリア・テレジア(マリー・アントワネットの母)だった。
本来ならウイーンに持ち去られる運命にあったが、交渉を重ね、ついに協定で
「なにひとつとしてフィレンツェの外に持ち出してはならない」と取り決めた。
偉いっ!最後のメディチのアンナ・マリア・ルイーザは遺言にもこう書き記し念を押した!偉かった!
メディチ家がフィレンツェに根をおろして(もともとは薬を扱う商人だった)500年。トスカーナ王国になって200年。
「街全体が美術館」といわれる基盤を築き、ルネサンスの栄光を支えたメディチの遺産をアンナ・マリア・ルイーザが
守り抜いたおかげで、今日もフィレンツェで目にすることが出来る。守ることは創造するよりある意味困難である。
誰かが義務を感じて守り伝えなければ風化してしまうのが自然だろう。まずは「繋いでいく」ことが必要と
改めて思ったしだいである・・・

 メディチ一門最後の末裔アンナ・マリア・テレージアの肖像
彼女の功績を称えて座像も作られたが、彼女の功績を知る人が少ないことを象徴するかのように、
人目につかないところにたたずんでいる。


やっと酔いが冷めて出てきたら(予定時間オーバー)薄暗くなっていた。
これから夕飯までお買い物タイム!
フィレンツェは、イタリアブランドの本店もある。
私はブランドに疎くてよく分らないが、‘フェラガモ’の本店はフィレンツェ?・・・なの?
とにかく、ブランド街があって、PRADAだの(あとがでてこない)が並んでいる通りがある。
ここで日本人発見!しかも女子高生!私たちは自分で苦労して働いたお金で旅行を楽しんでいる。
なのに、どう見ても親のお金で遠くイタリアに来てブランド品を、これまた親のお金で買っているようにみえる
彼女たちである。修学旅行かもしれない・・・
「あーあ・・・」と嘆く私に、Cさんが「私、(あの人たちを)ちょっと見て来ます!」と駆けていった・・・

私にもミーハーなところはある。PRADAの看板をバックに写真だけは撮ってきた・・・
そして、ごく普通のお店のショーウインドウに飾ってあった傘(イタリアのお店では置いてる商品のほとんどを、
おもてに飾って見せているようだ)を発見。総ベルサーチ柄!
「おもてにでてる傘が見たいんですけど」品のいい店主は折りたたみ傘をひろげてみせた。
「折りたたみかあ・・・おお!すごーい!」ボタンを押すとシューッと伸びてパッとひらく。
引っ張って戻せば元通りにもどる。「これはいい!」紳士用だが、おっ買い上げー。
ベルサーチ風ではなくて、本物のベルサーチなのに信じられないほど安かった。箱もりっぱだ。
色違いで3種類あったので、店主は全種類ひろげて見せて「もう1本どうだ」という。
言うこときいて買っときゃよかったなあ・・・
店主は立派なベルサーチの箱に入れながら「ベルサーチェ!」とイタリア発音を教えてくれた。
ちなみに、購入した傘はもったいなくてまだ一度も使っていない・・・。

シニョーリア広場までもどったところにジェラート店があった。すこしお腹がすいてたので入る。
サーティンワンアイスのようにトッピングできる。
「バニラチョコチップ」、Cさんは「オレンジシャーベット」なぜかひとまわり大きい。

そのすぐそばに、カメオ店があった。
ミラノの製品の方が良いと言われていたが買いそびれていたので、ここで母に買うことに。
ちなみにフィレンツエは革製品が良質です。私は自分用にブレスレットを購入しました。


HARRY'S BAR
予定外のアイスクリームでお腹いっぱいになっちゃったけど夕飯は夕飯。
予定していた(ここも私のリクエスト)料理屋へ向かう。予約は入れてない。
入り口付近にちょっとしたカウンターがあってお酒だけもいただける。私たちは、食事なのでテーブルへ案内された。
Cさんと並んで座り、前方にはカウンターの様子が見える。パスタ、魚(スズキ)、サラダ(アスパラ)、待望のリゾット。
デザートとエスプレッソも勧められたが、「もう、お腹いっぱいです。」と辞退した・・・。

カメリエーレ(男性の給使)は、「イトウさん、スズキさん・・・どっち?」と日本語で注文をとった。
料理はどれもボリューム満点で、かえすがえすアイスが悔やまれた。もちろん、味は申し分なし!
サービスもゆきとどいている。サラダと魚は、Cさんにたしなめられ、一人前をふたりで分けた。
Cさんの言うとおり、それぞれとってたらえらいことになっていた・・・なぜか待望のリゾットは記憶にない。

でもって、ここの一番のご馳走は‘カウンター’だった。
店内は‘満員御礼’状態。目の前はカウンター。イタリア人は男女とも、とにかくカッコいい!
ファッションのセンスも抜群にいい!もう、リゾットそっちのけでカウンターに目は釘づけ・・・
映画のスクリーンの中に入り込んだような気分(=ウッデイ・アレンの「カイロ紫のバラ」状態)
「あなたたち、素人じゃないでしょ!」というくらいの美形ぞろい!
再びフィレンツエ!そして再び HARRY'S BAR!昼間から酔えるイタリア万歳!

これで短いフィレンツエ滞在はおしまいです・・・
私たちは、PM10:00までフリータイムを楽しんで、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の近くからバスでホテルに
帰りました・・・

後日、サン・ロレンツォ教会にミケランジェロの傑作があると知った。
予習しなかった報いだ・・・「また来い」ということなのか・・・


翌早朝、途中アッシジに寄ってローマに向かう。


1996年12月フィレンツェ完


アッシジにつづく


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vol.57